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大竹市・宮島町

大竹市・宮島町

国立大竹病院 -初めて原爆病院患者をお見舞-

12月5日は快晴であった。瀬戸内海は青く澄み、島々の紅葉はひときわ美しい。広島県のトップをきって陛下をお迎えする佐伯郡大竹町(現大竹市)は、朝からお迎えの準備に湧き立っていた。沿道は陛下のお越しになる数時間前から、大竹市、木野村、栗谷村の奉迎者でぎっしりと埋まり、その数は数万人に達していた。
青柳山口県知事の先導のもと、お召し自動車は県境の栄橋を通って、いよいよ広島県に入った。陛下は沿道に湧き起こる奉迎者の歓喜の声にお応えになりながら、午後3時1分、御予定通り国立大竹病院にお着きになった。そしてただちに同院別室に入られ、松島病院長、楠瀬県知事、小谷県議会議長からの報告をお聞きになった。特に小谷県議会議長は、当時、我が国でただ一人の盲目の県議会議長であった。陛下には、その旨をあらかじめ区内官からお伝えしてあり、報告は田口県事務局長の介添えのもとに行われた。小谷議長はその後、次のような感想を述べている。
「県民を代表して陛下にお目にかかり、今後一層県民と共に協力して県政の再建、日本再建の為に努力したい。私の目の悪い事はあらかじめ宮内官を通じて陛下に申し上げてあった為か、特におねぎらいのお言葉を賜り感激で胸いっぱいになった。思いがけないお言葉であったので、はっきりとは聞き取れなかったが、『ご苦労であった。』と仰せられた様な気がする。天皇陛下の厚い御心にありがたい気持ちでいっぱいである。陛下に対しては何だかお痛たわしいような気持ちが起こった。陛下が本県を巡幸されて県民を御慰問される事により、県民は新たな感激と熱望をもって日本再建に努力する事であろう。」
この後、陛下は松島病院長の先導で、内科第八病舎をお見舞いになった。静かに歩を進められる陛下は、別途の一つ一つの前で
「どうか身体を大切にね。」
と一人一人に丁寧にお言葉をかけられた。陛下のあまりにおやさしいお言葉に患者は感涙してひれ伏すばかりであった。
病舎を結ぶ路上には、引揚者、戦災者、高齢者、遺族などが立ち並び、陛下は帽子をお取りになって、丁寧に励ましのお言葉をおかけになりながら進まれた。
ついで、外科第三病舎では、陛下は初めて原爆患者を御慰問された。国立大竹病院でただ一人の原爆病患者、畠山隆雄氏(当時24歳)の前にお止まりになった陛下は、生々しい傷跡を御覧になると、かすれた声で
「あの時は、大変だったでしょう。お気の毒でした。もう大丈夫ですか。」
とお尋ねになられた。畠山氏も陛下のやさしいお言葉に感激し「もう大丈夫です。」と、はっきりお答えすると、陛下はご安心なさったのか、
「しっかりやって下さいね。」
と、やさしく励まされた。また、隣のベッドの両足を失った患者には
「大変不自由でしょう。明るくしっかりやって下さいね。」
と、ご慰問された。
こうして、大竹町長の発声による万歳三唱をお受けになると、沿道に立ち並ぶ小学校、中学校、女学校生徒、大竹町近隣各町村民の割れるような万歳の声に送られて、三菱化成大竹工場へと向かわれた。

三菱化成大竹工場 -労働組合委員長をご激励-

午後3時39分、陛下は御予定より少し遅れて三菱化成大竹工場にお着きになった。三菱化成大竹工場は戦災により荒廃し、復興への道は決して容易ではなかった。こうした中での陛下の行幸である。
お車は正門から工場に入り、事務所玄関前で陛下は下車された。森社長の案内で事務所二階にて御小憩の後、岩波工場長の先導で化学繊維の製造現場をご視察になった。
機械の騒音、狭い通路、29℃の熱室をお通りの際は、お眼鏡の曇りもいとわれず、全作業員の敬礼にいちいち帽子を上げて御会釈なされた。作業中の工員は
「重要な産業だからしっかりやってくださいね。」
と、励まされ、紡糸作業はことのほかご熱心にご視察になられた。35段の階段をお降りの際は、連日の御日程のせいか足元にお疲れのご様子が伺われ、岩波工場長は手を差し出さんばかりに先導申し上げた。
出口近くの製品陳列場には、レーヨンステーフル製品、合成繊維製品,繊維器具類等が展示してあり、陛下は有機ガラス製品にはお手を触れられ興味深く御覧になった後、陳列器具の後に掲示してある生産高一覧表にもお目をとめられていた。
16分間にわたる現場のご視察を終えられ、整列してお迎え申し上げる作業員の前を御会釈をなさりながらゆっくりと進まれた。そして労働組合委員長の胸章にお目をとめられると、前に立ち止まられ
「生活に苦しい点もあろうが、重要産業だからしっかりやってもらいたいものです。組合の健全な発展を希望します。」
とのお言葉に原栄五郎委員長(当時44歳)は、「われわれは苦しいながらもそれを耐え、ご希望に添うよういたします。」と、力強くお応えした。
広場に出られると、地元の小方町、玖波町の人たちが整列しお迎え申し上げていた。引揚者の前で
「よく帰って来てくれたね。」
と、やさしくねぎらわれると、人々の中から嗚咽の声が起こった。そして一斉に湧き起こった万歳に帽子をお取りになってお応えになりつつ、ご視察を終えられ、三菱化成大竹工場をお発ちになった。
陛下が大竹市域を巡幸された事はこれまでにないことであり、それだけに市域民を始め、近隣町村民に大きな感銘を与えた。その後、陛下がお渡りになった国立大竹病院前の橋を「御幸橋」と命名。三菱化成大竹工場では、事務所南側に記念植樹を行い、さらに同工場周辺地域は「御幸町」と命名され、行幸の光栄を永く後世に伝える事となった。

宮島口桟橋 -快い潮風に御微笑-

午後3時43分、大竹駅をお発ちになった陛下は、山陽路での御静養地、宮島に向かわれた。お召し列車では連日の御日程によるお疲れにもかかわらず、終始お立ちになったままで沿道でお出迎えする人々に手を振ってお応えになった。4時36分、宮島口駅にお着きになり、森戸文部大臣、浜井広島市長、近隣町村民五千人が整列してお迎えする中を、宮島口駅長の先導で宮島口桟橋から連絡船「七浦丸」にご乗船になった。
陛下は、鳴り止まぬ人々の万歳の嵐に、潮吹きすさぶ後甲板に出られると、ふいにデッキの柵の上に上がられ、ニッコリと帽子を打ち振ってお応えになられた。人々は、そのお姿が瀬戸の夕闇に消えるまでお見送り申し上げた。
暮色たちこめる瀬戸内海を天皇旗はためく「七浦丸」は静かによぎっていった。陛下は点在する島々の美しさを御賞美されつつ、つつがなく宮島桟橋にご到着になった。御在所岩惣旅館に入られた陛下は、お付の者たちと共に静かな広島県での第一夜をお過ごしになった。

歩いて行こう!

当時の記録は、陛下のお人柄を伝える次のようなエピソードを紹介している。
陛下は宮島桟橋から岩惣旅館までお車で向かわれたが、厳島神社回廊手前20mの所でお車が故障した。陛下はお気軽に
「歩いて行こう!」
とおっしゃって下車された。約300mの道を、右に厳島神社の社殿を御覧になりつつ、あたかも皇太子時代においでになった当時のことをご回想になっているがごとく、ゆっくりとお歩きになった。
お着きになると同時に、陛下から
「事故のことは心配にはおよばない。運転手が最善を尽くしているにもかかわらず、不幸にも機械の故障が起きたに過ぎない。なにも心配をすることはない。」
との、お慰めのお言葉を受けた楠瀬県知事は、直ちにモーニング姿のまま現地に走って帰り、夕闇の中に一人泣きぬれて故障箇所を修理に勤める運転手をやさしく慰めたのであった。

宮島での御静養

宮島でのお泊り第一夜は、静かに明けた。この日は、御静養日であり、陛下は東京御出以来、久方ぶりにおくつろぎになった。陛下は、山口県萩市御視察以来、山陰の冷雨がもとで、お風邪を召され、12月3日宇部付近巡幸の際は、かなりお苦しそうであった。
陛下は午前6時半にお目覚めになり、トーストにオートミール、鶏卵、牛乳および果物の軽い朝食をお取りになった後、午前9時、夜明け前から宿舎の周りに張り込んだ各新聞社の写真班の熱望にこたえられて、紅葉谷に沿ったせせらぎに臨む縁側にお出ましになり、快くポーズをとられた。陛下はこの朝、すっかりお元気になられて、お顔色も良く、髭も綺麗に剃っておられた。写真班は一斉にシャッターを切った。陛下は、お気軽に四方にお顔を向けられる。と、一人の写真班員が滑って危うく谷川に転げ落ちそうになった。これをお目にとめられた陛下は、声を上げて朗らかにお笑いになった。居並んだ写真班の面々も声を和して笑った。陛下と写真班達の隔てのない心の交流の一瞬であった。
午前10時半、広島文理科大学教授理学博士堀川芳雄氏の案内で、紅葉谷を御散策になり、御専門の植物の採取にひと時をお過ごしになった。陛下は、長旅の疲れもお見せにならず、終始、御満足の様子で、紅葉橋を渡られ、御陵川に沿って新紅葉谷公園、四ノ宮神社を御散策の後、平松公園の展望に立たれ、朱の大鳥居、回廊がくっきりと浮かぶ初冬の瀬戸の景観にしばしたたずまれた。御散策中は、植物の生態を熱心に御観察になり、野生植物をお手にとられ、シノブと立シノブの区別など、矢継ぎ早にご質問され、堀川教授の説明に
「ああそう。うんうん。」
と大きくうなずかれた。生物学者としての学究のお姿が輝いていた。紅葉と小川のせせらぎの中にある陛下のお姿は、自然の風物と調和して、式場や工場での陛下とは全く異なった印象を与えた。
陛下が御散策中に、平松公園の上り口付近で、松葉杖にワラジばきの老婆が土下座して合掌していた。お目にとめられた陛下は帽子をとられ、ニッコリ微笑まれて帽子を三度高くお振りになられた。この老婆は、同公園茶店の木谷ムメさん(当時70歳)であった。陛下は、おいたわしいほど、こまごました事にお気を配られる。故障自動車の運転手への御配慮、新聞写真班へのポーズ、道端にただ一人ひれ伏し拝む老婆へのお慰め等々。陛下のおきよらかな人間味あふれる御態度は、お迎えする人々の親近感を増すばかりであった。木谷ムメさんは「もったいない。もったいない。」と感涙にむせんでいた。やがて陛下は約1時間半の御散策を終えられて宿舎に向かわれた。
愛くるしく戯れる神鹿が絶え、もののあわれを誘うその鳴き声が聞かれなかった事は一抹のもの足りなさを感じられたが、陛下には、 22年ぶりの宮島行幸であり、帽子、オーバーにクモの巣やシダの枯葉などをつけられたまま、感慨深げな御様子で行在所にお入りになった。
御昼食後、午後1時より、陛下は『しまもり丸』で宮島七浦を御巡航になり、初冬の陽射しに照り輝く瀬戸内海の美しい姿に堪能されたご様子であった。七浦巡りの船中では、野坂宮司に、大正15年、陛下が皇太子として行啓されたときの御記憶と、新聞紙上でお知りになっていた宮島の新しい様子について、
「この島には沢山の鹿がいたが、近頃は少なくなっているが...。」
と、おたずねになった。このころの宮島について、陛下がよく御存知なのに野坂宮司も驚いて、「少なくなってしまって残念です。」とお答えしたのであった。皇太子時代のお登りになった弥山の全景を初めて眺められた陛下は
「弥山の頂上はどこか。」
と、お聞きになったり、さらにお話は千畳閣のことに移った。陛下は、千畳閣の周囲に沢山奉納されていた杓子ことをよく御承知であった。そのことについて、野坂宮司が「終戦後、全部処理してしまいました。」と御説明申し上げた。船室はなごやかな空気にあふれ、陛下は終始おくつろぎのご様子であった。瀬戸内海の風光を心ゆくばかり御覧になられた陛下は、午後3時、宮島桟橋に御到着。行在所のお入りになった。
午後3時からは、楠瀬広島県知事から県政一般について御聴聞になり、数点について御下問された。引き続き午後3時半からは、次の御進講をお受けになった。

○ 「広島市における戦災者の傷痍について」  広島県赤十字病院長医学博士 竹内 氏
○ 「甘藷栽培の改善について」        豊田郡鷺浦村  御畑 與市氏
○ 「広島県の和牛改良について」       神石郡油木町  石井 義雄氏
○ 「両棲類における実験発生的研究について」 広島文理科大学助教授理学博士 川村 智次郎氏

かくして陛下は、宮島での御静養を終えられ、7日朝お名残り惜しむ宮島町民のお見送りのうちに、いよいよ原爆の街、広島へ向かわれたのである。

原爆の影響はないか -市民の健康にお心遣い-

岩惣行在所において楠瀬県知事から県政一般について奏上申し上げた後で、陛下は戦災都市の復興計画、県財政の状況、原爆が与えた動植物の影響の三点について御下問があった。これについて楠瀬県知事は次のように語った。「国民生活の上に常に深き御心を注がれ給う陛下には私が奏上申し上げる県政の状況について一々おうなずきになり最後に
○ 県下の戦災都市の復興計画は進んでいるか。
○ 地方財政の窮迫は必然的に中央依存の傾向を強くしていると聞くが、さりとてその打開の為に県税を増徴してゆく
  結果県民を苦しめる事のなりはしないか。
○ 原子爆弾はその後広島県民の健康や、植物の発育等に影響を与えていないか。
の3点について御下問がありました。
○ 県下の戦災都市の復興計画の実施に一生懸命であるが、問題となるのは呉市で現在のところ貿易ないし工業港として
  旧軍港を更正さす方針でいるが、なにぶんにも産業上後方地域が貧弱なのでこれを如何にするか或いは広島市と総合
  的に港湾復興を考えていくべきかを研究している事
○ 地方財政の独自性を強化する為に県税増徴はやむを得ない実情にあるが、その税収入はできる限り県民生活の向上、
  充足の面に還元する方針で進んでいること
○ 広島市の原子爆弾の影響は現在では人体については殆ど心配なく、ただ植物に学問的に多少の影響を与えている程度
  であろう旨
お答え申し上げたところ、陛下には大きくお頷きあそばし、特に原子爆弾の影響についてはご安心のていにお見受けしました。」