日本民族にとって未曾有の大危機の中で、天皇陛下(注:昭和天皇)の民族を救わんとなされた御祈念と超非常の御処置によって終戦を迎えることができた日本であった。が、昭和悲劇の絶頂はまだこれからでもあった。日本はこれからどうなるのか。敗戦降伏という無念さに加え、さらに絶望と飢餓の中で国民は呆然自失の毎日であった。その不安と絶望感の漂うときに、連合軍は占領軍としていよいよ上陸してきた。八月十三日にはマッカーサー元帥が、日本の占領管理の責任者として入り込んできた。九月二日、アメリカ軍の旗艦ミズリー号で降伏調印式が行われ、名実ともに日本は有史以来はじめて異民族による支配を受けることとなったのである。
陛下と占領軍総司令長官マッカーサー元帥との会見は、占領軍側の発案で行われることとなり、 陛下は九月ニ十七日アメリカ大使館へ御訪問になり、元帥と会見された。このマッカーサー元帥との御会見の模様は一般によく知られているところであるが、昭和の歴史ある限り、いや我が民族の歴史ある限り語られなければならない場面なのでここでもとりあげる。マッカーサー元帥はその自著の「マッカーサー回想録」でも述べているが、陛下との会見では、驚き、かつ感動したのであった。それは、これまでの世界史に登場する多くの敗戦国の元首が戦勝国の将軍に会見したが、そのときの敗戦国元首は必ず自分の生命と財産の保障を嘆願するのだった。マッカーサー元帥は、陛下も命請いにおいでになったと考えていたのである。ところが、陛下はマッカーサー元帥に、
戦争遂行の責任は全て私にある。文武百官は私の命ずるところであるから彼等責任はない。
私の一身はどうなろうともかまわない。この上はどうか国民の生活が苦しいので助けて
ほしい
と、おっしゃったと『侍従長の回想録』の中で藤田尚徳侍従長は述べている。また、その後昭和三十年、重光葵外務大臣がニューヨークでマッカーサー元帥と会見した際、元帥本人が、
天皇陛下の方から最初に戦争責任について話した。本当に驚いたが次のように天皇は言明
した。「自分は今度の戦争に伴う全事件について完全な責任をとる。全軍の司令官や政治家
のやったすべての行動の責任は自分にある。自分の一身は、元帥がどうなさってもかまわな
い。元帥の判断通り進んでほしい。自分が全ての責任者であるから。」といわれた。もしも
国の罪をあがなうことができれば進んで絞首台に上りことを申し出るというこの日本の元首
に対する占領軍司令官としての私の尊敬の念はその後も高まるばかりであった。
と語ったと重光外務大臣も昭和三十年九月十四日付『読売新聞』紙上で述べている。我民族はこのようにして、終戦の御聖断によって救われ、さらには陛下の捨身の大御心によって戦勝国の援助を受け、助けられたのであった。
陛下が終戦で詔りされたことは比喩ではなかった。一語一句がそのまま具体的であった。「自分はいかになろうとも万民を生命を助けたい」と詔りされた通りを、マッカーサー元帥におっしゃり、元帥もその陛下の立派な御態度に感服したのであった。
世界史の近代から現代とは、君主制崩壊の歴史であった。この間、世界中で大小様々な戦争があったが、その戦争が終れば敗戦国から必ず王朝が消えた。いや、戦勝国からも消える運命のところは多かった。戦争が終り、新しい秩序が生まれたとき、君主制と王朝は打撃を受け、中でも敗戦国のそれは決定的であったのだ。しかし、日本の敗戦だけは例外であった。多くの国民は天皇陛下と運命を共にしようとしたのである。戦争に敗れてもなお、尊王の伝統は行きつづけたのであった。
皇居内の勤労奉仕者(昭和二十年)
戦いにやぶれし後の今もなほ民のよりきてここに草とる
をちこちの民のまゐ来てうれしくぞ宮居のうちに今日もまたあふ
戦災は皇居も受けた。戦後間もなくの皇居周辺も全国の都市と同じように荒廃に帰したのである。皇居内でも木造の建物は消失し、雑草が生い繁り、瓦や焼け残り材が散乱する痛ましい状況であった。このことを知った人びとが皇居の清掃奉仕を願い出たのである。この二首の御歌はこの勤労奉仕の人びとについて詠まれたものである。この清掃奉仕を願い出た一人である長谷川峻氏はその『みくに奉仕団報告記』の中で、
荒れ果てたのは皇居だけでなく、人心の動揺も否めない時であった。武器で敗れた日本が、
思想でさえも人間の精神でさえも敗れたのではないかという気がする。そういう時に「外苑
の草を刈らせてほしい」と東北の青年たちが願い出たのであった。自分はこの純情な青年た
ちの燃えあがった気持ちを知って哭けた。これが命令されざる深胸の叫びなのである。六十
人の若者たちは、自分たちで作った米、木炭、みそ、野菜を持って上京し戦後最初の十二月
八日早朝、坂下門から宮城に入ったのであった。青年たちはモッコをかつぎ、瓦礫をかたづ
け土山を崩し、清掃にあったのである。ふと仰げば天皇が御会釈を賜っておられるのだ。予
期せぬ田夫人、青年たち......。何の理屈もしらず、国破れて時に感じては花に涙をそそぐの
情から物言いたげな風情である。敗戦にあえぐ国民と、祖宗に対し、国民に対し身を切るよ
うな思いでおられる天皇が素裸な愛情を出して進まれるとき日本は再建されると信じた。
陛下の御下問のあと、お帰りになる時、思わず国家の奉唱をして奏送申し上げたのである。
廃墟の宮城に至尊を拝して涙ぼうだと流しながら君が代を歌う敗戦国農村青年があったので
ある。ああ、君民一体とはこのことである。
何と美しい光景であろうか。また、「陛下は泣き声の君が代を不動の姿勢で聞いておられた、終りまで-。」と読売新聞社の『昭和史の天皇』にものこっている。この美しく力のこもった哀しさが民族の再建の生命であった。この『みくに奉仕団』を第一回として、皇居清掃の勤労奉仕の申し出は今日まで黙々と続いているのである。この勤労奉仕に参加した人びとは今日ではすでに百何十万人に及ぶという。今なお、申し込みは殺到し、申し込み後一年は待たなければ奉仕できないという。
毎年、春と秋に陛下が御招待になる園遊会が開催されることは報道され、多くの国民が知っている。だが、この園遊会が催される御苑の清掃整備作業の大部分は、皇居清掃勤労奉仕に参加した人々によってなされたことを人々は知っているであろうか。このことは一度も報道されたことはない、が、陛下はこのことをよく御承知なのである。誰に知られなくてもいい。ただ、名誉を思わず、利益を思わず、勤労奉仕の人びとと陛下は心の絆で結ばれているのである。陛下は『終戦の詔』の中で「常に爾臣民ト共ニ在リ」と仰せられた。国民と共にあらせられた陛下に対し、我国民も陛下と共のありたいと念じたのであった。皇居清掃奉仕という尊い姿を通じて天皇と国民が思い合い、国の再建を確認しあう姿は何と美しく尊いことであろうか。これこそ我が民族の生命なのである。