TOP > 天皇陛下と広島 > 法隆寺玉虫厨子の意味

法隆寺玉虫厨子の意味

歴史に登場する人びとは、誰もがそうであるが必ず一念をいだいて倒れた人びとである。人は倒れてもその人の一念は滅ばない。その滅ばない一念とは何であったのかを思い出すのが歴史であろうか。後の世の人々は、それを受継ぐことでなければならないのだ。では、御歴代の天皇の御一念とは何であったのか。天皇の御本質とは何であったのか。我々はその御一念が何であったのかを感じ、感謝と敬仰の念を持つとき、歴史は生きたものとなる。日本人として身についた生命となる。
御歴代の天皇は、常に民族の先頭に御立ちになり、御身を顧りみられず国民を思われ、ただ国土安泰を祈念された。日本の歴史とは天皇御悲願の歴史でもあった。そういう天皇の御本質を皇太子のままで薨去なされ、御位にお即きになられることはなかった聖徳太子の御生涯の中からその御祈念と御精神を拝してみたい。太子は、いうまでもなく用明天皇の第二皇子としてお生れになり、推古天皇の摂政として当時の政治を整備なされた。十七条憲法を制定され「三経義疏」をお著わしになったことも人の知る通りである。さらに、大和斑鳩には法隆寺を建立され、推古天皇と共に深く仏教信仰に帰依なされたのであった。その太子が摂政をお務めなされた前後三十年間、すなわち外来文化の移入時期から大化改新に到る約百年の間は、文明興隆と同時に歴史はまざまざと混乱と危機の内に展開した時代であった。中でも氏族の血肉同士の対立と、大氏族をして驕慢ならしめ私権拡大の野心は目に余った。さらには、それまでにはなかった外来の悪疫が発生流行し、社会状態も混乱を極め、多くの人びとが苦しんだのであった。そういう時代に太子は、
   和を以て貴しと為し、私を背いて公に向ふは、是臣之道なり、
と、十七条憲法で詔りされたのであった。
また、伊予の国道後温泉郡には、法隆寺の庄があった。ある若き日の太子はこの道後温泉を訪ねられ、ここでお作りになられた漢詩があるが、かつて「伊予湯岡碑」とよばれ、太子御建立の碑が道後温泉にあったという。今は幻の碑となっているが、その碑文は全て、「続日本紀」に記されて現存している。
それによれば、
   惟ふに、天れ日月は上に照りて私せず、神井は下に出て給へざるなし。
   万機はこの所以に妙応し、百性はこの所以に潜扉す。若ち、照らし、給へて、
   偏私することなきは、何ぞ寿国に異らむ云云、
とお読みになった。天に日月があまねく照り輝くように、地に神井戸が波々と湧き出て尽きることがないよう政治もこのように全ての国民に対して、わけへだてもなく公平に行われたならば、そこは理想国(寿国)であると仰せられた。
太子は、少年期にこの時代の文明興隆と同時に押し寄せるさまざまな混乱とそれによる民族の危機を目の前にされた。人間が人間であるための悲劇と、時代の危機の中で御心を傷めつづけられていたのである。そういう現実の中から「十七条憲法」や「伊予湯岡碑」にあるように、この国をして寿国なれ、と御祈念なされつづけたのであった。この太子の御心とは寿国、すなわち理想国家実現への御一念であり、その深い御祈念に対して当時の人々は思慕と敬仰の心を抱いていたのであった。
法隆寺は、いうまでもなく聖徳太子の御建立の寺である。この法隆寺はこの時代の太子の御体験とどのような関わりを持つのであろうか。一体どのような思いを込められて御建立なされ、何を祈られ、いかなる仏に、いかなる誓願をなされようとされたのであったか。
法隆寺の大宝蔵には有名な玉虫の厨子がある。法隆寺に伝わる飛鳥時代の厨子で玉虫の厨子というのは、宮殿の金具の下に玉虫の羽根を伏せて装飾してあるからで、扉と須弥座の四面に釈迦の仏世界が絵物語風に描かれている。ここに描かれている釈迦の仏世界の絵とは、「捨身飼虎」の図なのだ。
   昔インドの薩太子が馬で山野を駆けめぐっている時、飢えた虎が七匹の
   小虎を連れて竹林をさまよっているのに出合った。薩太子は飢えた虎親子を
   憐れに思い、わが身を虎に与えるべく、竹でのどを刺した。血を見れば虎は
   襲いかかるはずなのに飢えのひどさのために襲う力さえなく、太子を食べようと
   しなかった。そこで太子は、崖に上って上衣を脱ぎ、崖から飛び隆り、地上に
   墜落した自分の肉を虎に食べさせた。
という仏世界の慈悲深い物語りであるが、この菩薩行を絵に描いたのが「捨身飼虎」の図である。釈迦生前の数ある菩薩行譚の中から捨身を主題とする「捨身飼虎」図が法隆寺の玉虫の厨子に描かれている意味を見逃してはならない。この絵の意味するものが重要なのだ。この厨子は法隆寺伝によれば「推古天皇ノ御物ナリ」とある。推古天皇は、仏法興隆の詔りをなされ、三宝興隆を国是とされた最初の天皇であらせられた。聖徳太子は推古天皇の皇太子で摂政であらせられたのだ。太子の少年の日、御自身の内面では父用明天皇と死別され、さらに用明帝皇后の母とも生別れされた。又、外面的には先に述べたが文明興隆と同時に社会状態も混乱を極めた時代に太子が最も心に留められたことが捨身の菩薩行であったのだ。太子の御心は、釈迦その人の捨身の菩薩行に倣おうとなされ、御信仰と仏法に対する帰依であった。
太子の御一生とは、捨身飼虎さながらの、万民の命に代えて、我が身を捨てる御決意の御生涯であらせられた。太子の薨去は、推古天皇三十年であったが、推古帝は少年時代から甥である太子を見守り何よりも御自分の頼みとして摂政として政治を託され、この時代を共に歩まれたことに対して、太子の形見の玉虫の厨子の持念仏となされ、ありし日の聖徳太子の捨身の心をしのばれたのではなかったろうか。人びとの太子薨去による悲痛の思いは、「日本書紀」の記録によって充分うかがえる。すなわち、
   日月輝を失ひて、天地既に崩れめべし、今より以後、誰か侍まむ哉
多くの人びとは、今より後に誰にたのみ、すがればいいのかと嘆き悲しんだのであった。太子の法隆寺御建立の御一念は、父帝であらせられる用明天皇への御祈念と同時に、一切の門閥専権を排し、人心の和と、国土安泰の御祈念であった。寿国の実現を本願なされ、捨身という最も尊い御心は皇室と天皇の御本質であり、至高の大御心として日本史の中で光り輝くのである。