元護国神社前、市民奉迎場を御出発の陛下は、左に営団住宅、右に市営住宅の建ち並ぶバラック住宅街を通られて、恩賜財団同朋援護会広島県支部経営の第一授産共同作業場にお成りになった。場内では、同作業場従業員の家族、社会事業関係者、広島母子寮員、民生委員、開拓団代表、そして似島学園、新生学園の可憐な孤児達やシーファー神父に引率された長束カトリック愛児園のかわいい子供たちのお迎えを受けられた。
同場長渡辺礼一氏が先導申し上げ、まず社会事業関係者の前では
「しっかり社会奉仕を頼みますよ。」
と、一人一人に帽子をとってご会釈になった。かわいらしい各学園の孤児、園児達のまえでは、足を止められ、一人一人の顔を見回されながら
「明るく立派な国民になってね。」
とのお言葉、子供達が一同元気良く「はい!」とお答えすれば、陛下もやさしく微笑された。
開拓団体委員長藤田守登氏(33才)には
「いろいろ困難な事もあろうが食糧増産のためしっかりやって下さい。」
と御激励、感極まった奉迎者の一人が「天皇陛下万歳!」と叫べば、場内外、せきをきったように「万歳!万歳!」の歓呼が上がった。
戦災者、引揚者などの生活困窮者400余名が働いている同授産所の鼻緒工場、ミシン補導所、木工工場製作品陳列所を親しく御視察になったが、同工場に働く母に連れられた森永智夫君(12才)を場長が説明申し上げると、陛下は
「しっかりやってね。」
と、お言葉をかけらられた。森永君はそのお言葉に、慈父を見上げるごとく嬉しそうに「はい!」とお答え申し上げたので、陛下は思わず微笑され、しばし足を止められた。
陛下をお見送りした渡辺場長は、次のように,その感動を語っている。
「天皇陛下には中国地方御巡礼遊ばし、同授産場にご来臨遊ばされ喧騒極まる塵埃の屋内作業現場の実情及び製品を御覧遊ばされ一々御激励御慰労の御言葉を賜りました。
陛下の御温情溢るる御英姿御仁愛の御言葉に接し一同感涙に咽ぶ次第であります。私達援護生産の事業に従事する者は今日の善き日を記念し更に業務に精励いたしまして平和国家建設に微力を盡すけついであります。」
御説明
私が場長渡辺礼一でございます。
只今から御先導申上げます。
ここに陳列致しておりますものは当授産所の製作品でございます。
只今従業致しておりますものは約400名でございましてその内で約20名がこの場で働いております。自宅で内職として働いております者が約280名でございます。
その大部分は戦災者と引揚者でございまして一部の生活困窮者も働いて居ます。
これらの従業者の収入を申上げますと技術者で多く取ります者が1日百七八十円でございます又少ない者が未経験の者で1日四十円位でございます平均いたしまして1ヶ月千七百八十円となっているのでございます。
授産所を御出発の陛下は、継の御視察地である袋町小学校と新制第五中学校の併設されている旧袋町小学校へと向かわれた今一度陛下のお姿を拝したいと市民奉迎場から溢れ出した人々で、紙屋町、本通り商店街は身動きも取れない有様であった。その中を分け入るようにお車は進み、予定より9分遅れて、午前11時8分、戦災の跡も生々しい旧袋町小学校へ到着した。そして直ちに、袋町小学校校長石井義夫氏の先導で御便殿にお入りになり、石井校長、第五中学校校長上田只介氏からの奏上を受けられた。
奏 上
広島市立袋町小学校長 石井 義夫
天皇陛下中国御巡幸の御事どもを承り、御巡路御つつがなくわたらせられるよう日夜児童と共にお祈りしお待ち申し上げておりました。
謹んで広島市袋町小学校の概要を申し上げます。
本稿は明治6年2月2日下中町戒善寺内に就将館として創立し、その後袋町に転じ、桜川小学校、温知小学校と改称し、播磨屋町に移転し播磨屋小学校と称え、明治43年袋町小学校として再び現地に移って参りました。
昭和20年4月疎開のやむなきに至りましたので本県双三郡の四個村八ヶ寺に教官小丸九郎以下職員16名は児童306名と共に参りました。約1000名は縁故疎開、約100名は本校にとどまりました。
原子爆弾により当時の学校長小林哲一以下職員12名、児童65名は戦災死し、鉄筋3階建ての内部と講堂は全焼の為授業も一時中断のやむなきにいたりました。
昭和21年5月1日授業再開、児童40名を収容いたしました。
現在の学校長石井義夫以下職員18、児童505名在籍し、校舎の復興工事も本年度に入り着々進んでおります。
職員児童共に心を合わせて新日本再建に打ち込んで努力いたしている次第でございます。
奏 上
広島市立第五中学校長 上田 只介
謹んで広島市立第五中学校の概況を申し上げます。
本校は本年4月15日開校、生徒は1年生478名、2年生100名、3年生13名合計591名、学校長以下職員22名でございます。校舎は目下袋町小学校2階1教室、3階6教室及び県立広島第一中学校の3教室を借りております。明春までには新校地に校舎が出来る予定になっております。
生徒はこの廃墟に等しい中にありましても極めて元気に明朗に新日本の建設は先ず私達からといった気持ちで勉学にいそしんでおります。殊に男女共学につきましては不安なく将来を大いに期待しております。職員もこの困難な社会状況下にありまして志操堅固よく耐乏生活の中に生徒と共に楽しく努力を続けております。
今回の行幸の光栄は永久に伝え善美な校風を樹立し有為の材を育成いたす事を御誓い申し上げます。
旧袋町小学校は爆心直下の本川小学校と並んで最も被害が大きく、多くの犠牲者を出した学校であった。陛下は両校長の奏上に、時折、
「うん、うん」
とうなずかれ、奏上を終えて退出しようとする両校長に
「戦災校として御苦労に思います。どうかしっかりやって下さいね。教育は重大だから、いま言ったようにしっかりやって下さいね。」
と御言葉をかけられた。両校長はお返しする言葉もなくただ感激の涙にむせんだ。両校長は陛下をお見送りした後、次のようにその感激を述べている。
「数多い学校の中から私どもの学校が行幸の光栄に浴したことさえ感激の外ありませんのに、奏上を終わってほっとして退出しようとした瞬間、突然ありがたい御言葉を賜り、電気に打たれたというか、名状しがたい感動に身も心もうち震う思いでした。あの力強いお声、夢かと疑いたい位ですが、今尚耳の底に、心の奥に焼きつくように残っております。生徒と共にあの日の感激を無にしないよう努力する事あるのみです。」
奏上の後、石井校長の先導で2階にお上がりになった陛下は、廊下に陳列された袋町小、五中の生徒の作品を御覧になった。とりわけ、袋町小6年生の田中明子さんが、爆心地近くで収集した典型的な原爆瓦3点については、殊のほか興味深げに御覧になった。
つづいて袋町小学校教官高井正文氏担当の6年生の国語の授業「星の光」をご視察後、第五中学校教官城太郎氏担当の英語の授業を御覧になった。窓の隙間から吹きすさぶ寒風にもめげず、粗末な机と腰掛で元気良く勉強に勤しむ生徒の姿に、陛下は暖かいまなざしを注がれていた。
校庭に設けられた奉迎場に袋町小、五中の生徒職員、市内小中学校長、遺族、引揚者等、約5千人がお待ち申し上げる中、陛下はお立ち台に登られた。全員声を感動でふるわせながら「君が代」を斉唱した。陛下は帽子をお取りになり、右手を高々とさしあげられると、幾度も幾度も全員の歓呼にお応えになった。丁寧な御会釈を最後に陛下が台をおりられようとすると、人々の万歳!万歳!の声が嵐のようの巻き起こった。それはやがて嗚咽へと変わっていった。陛下は何かおっしゃりたいように何度か口を動かされたがすでに御予定の時刻は過ぎ、間もなく、お車の人となられた。
陛下がご出発の後、校庭に残された生徒たちは陛下がお立ちになったお立ち台に駆け寄っていた。少しでも陛下の温もりに接していたいと思ったのであろう。台上には陛下の靴についていた土がほんのわずか残っており、その土をそっとなでている生徒の姿もあった。
11月初めの朝会で校長先生が、僕たちの学校に天皇陛下がおいでになることにきまりました。広島では、袋町校がただ一つですとお話なさいました。それから僕たちは先生といっしょに、毎日のようにあちこちと少しづつでもきれいにして、お迎えしようと一生懸命お掃除をしました。いよいよ12月7日その日となりました。なんだか嬉しいようで、胸がわくわくします。11時ごろ自動車の音がしました。先生の号令が掛かりました。
いよいよ天皇陛下が僕たちの学校に来られたのだと思ったらのどがこくんと音をたて僕は思わずつばをのみこみました。ぼくたちのいつも通る廊下をお通りになって、ひかえ室におはいりになって、お休みになりました。ぼくたちがいつものぼるかいだんをのぼられて2階の6年生の勉強をごらんになって、そまつな新制中学の教室に行かれる途中の廊下で陛下は帽子をとられてばんざいの声におこたえになられました。そのお姿は映画で見たお姿そのままでした。僕はあのお姿を永久に忘れることはできません。いよいよ陛下はぼくたちの前にお立ちになりました。僕は君が代の歌も声がかすれてよく歌えませんでした。陛下のお顔はなんだか心配そうに見えました。そしてみんなつらいこともがまんしてよく勉強しお国のために世界平和のため役にたつりっぱな人となってくださいとおっしゃられているようでした。僕は後から校長先生が、陛下から大変ありがたいおことばをたまわりましたとおっしゃられた時なんともいえないありがたい気がしました。僕は陛下のお心を心としてこのめいよある袋町校生徒としてはづかしくない人間になりたいと思います。
御予定より13分遅れて午前11時半、陛下は広島県立第一中学校にお着きになった。原爆の惨禍は、ここにも生々しい傷跡を残していた。校庭の一角には、未だ鉄筋コンクリート造りの講堂の残骸が無残な姿をさらし、紙張り障子のバラック校舎には、美しかったかつての一中の面影は見られなかった。
22年前、陛下は皇太子時代にもこの一中にお立ち寄りになった事がある。同校と広島師範学校とのサッカーの試合を御覧になったのである。運動場を取り囲むように植えられたポプラやユーカリの大空をつくようにそびえる姿、あたりの風景に見事に溶け込んだ美しい校舎。いまやその昔の姿を全く留めていないとはいえ、無言のままで歩まれる陛下のお姿には、当時の想出を深くしておられるお気持ちがありありと拝察された。
数田猛雄校長の先導でバラック校舎の中に進まれた陛下は、先ず教官木村太郎氏が担当する5年1組の数学の授業を御視察になった。
御入室に先だち、陛下はオーバーと帽子をお取りになり、一同に対し御会釈された。木村教官による解析幾何の講義に無言でじっと耳を傾けられ、講義が進むにつれ、何度も何度も深くおうなずきになった。
次いで教官蒲地玄三郎氏担当の5年4組の生物学「伝染病を防ぐ法律」についての授業を御視察された。生物学は陛下の御専門のことであり、殊の外御興味ありげに聞き入られ、数田校長が次への御案内の合図を さし上げてもお気付きにならず、再度の御案内にようやく御退出になる御熱心さであった。一つ一つの出来事に全身全霊を込めた真心で対される陛下のお姿は、巡幸の先々でお迎えする人々の心にさわやかな感動と、深い確信を呼び起こすのであった。
校舎を御退出された陛下は約900名の全校生徒、教職員、父兄、同校卒業生、市内各学校長がお出迎えする中をグラウンドにお出ましになった。この時も陛下は、出迎えの者に対して、丁寧に御会釈することをお忘れでなかった。
運動場では、河村毅教官の5年生のサッカー、東側では橘高教官指導の4年生によるバスケットボール、南側では林弘教官指導の2年生による短距離走が繰り広げられていた。元気な満ち溢れた白シャツ、白パンツの若人達が笛や小旗の指揮ではつらつと動き回る姿を御覧になった陛下は、御満足のご様子であった。
やがてお車に召された陛下は、職員生徒のばんざいの嵐の中を市庁舎に向かわれた。
校長謹話
かつては皇太子としての行啓を仰ぎ、今又陛下を御迎え申し上げたことは本校職員生徒、父兄、卒業生一同の終生に光栄とするところであります。実に民主的な陛下の御健康な御姿を御側近くに拝し御言葉さえ耳にした私は感激の極みであります70余年の輝く伝統と6千名の卒業生をもつ本校も学制改革によって近くその名は変わります。けれども、一中の名の最後の年に我等の陛下を御迎えした光栄と感激は次への躍進、、新制高校への大きな動力となり、伝統の「がん張ズム」は永久不変に益々そのスピリットを発揮する事を確信いたします。
待望の12月7日は来る。初冬の風は冷たく木枯らしの吹き狂う中を今ユーカリの残虚が寒ざむと明けてゆく。早くも市民奉迎場を目指す人の列が言い知れぬ喜びと緊張の内に進んで行く。9時頃から時を追って登校してくる生徒も清潔な服装で、皆本校に行幸を給はるといふ誇りを充満させながら何処か落ち着きがない。通路と表玄関に竹ボウキの目が加えられる。やがて集合の鐘が鳴りひびき、市内各中学校長、一中の諸先生達が奉迎位置につく。そこで再び奉迎についての詳細な御注意が加えられる。南運動場には早くも周囲をぐるりと人垣を作り、表門の前にも溢れ満ちて人並みが打って居る。
シルクハットを片手に燕尾服をスマートに着込まれた小柄な校長が御通路を際巡され、幾つかの小石を拾われた。校内の雰囲気は刻々と緊張の度を加え御来校の時刻は熟していく。突如として静寂を破る警備車の到着である。続いてクリ色の御召車が到着し、灰色の質素な外套を召された陛下が御下車遊ばされた。先ず5年1組と4組の授業を御覧遊ばした陛下には、南運動場で一途にお待ちしている在校生の前にお立ちになった。吾々の感激の最敬礼をお受けになった後、お帽子を右手にかざされつつ南運動場へとお出ましになり、伝統ある蹴球その他の意気溌剌たる熱血児の健闘をば御覧遊ばすことしばし、校長の鄭重なる説明に始終御感慨深げにおうなずきになった。折りから期せずし起こった歓呼の声は寒空にとどろく。人垣は突如として怒涛をなし、陛下を慕ふあまりの万歳に一中はわれんばかり。帽子を持った小さな手を振れども万歳が口から出なかった子供。涙にむせぶ老婆。将に感激のクライマックス。外人記者はこの熱狂振りに小首をかしげて居た。斯くして陛下には本校行幸を終えさせ給ひ、御乗車になり、そして帽子で会釈し給ひつつ、市役所へお向かいになったのである。後は大海の嵐が去った鏡の如き静けさを思はしむ一抹の淋しさが取り残された。陛下には多少お疲れの様子が伺われたが、一外人記者も語った如くに偉大な気品と沈着を保っていられた事は、日本国民として誠に喜悦に耐えない事実である。ここに陛下の御健勝と御長寿を乾坤神仏に熱願すると共に陛下の御期待に応えて平和国家建設に努力し、アトム広島をして世界平和の発祥地たらしむ覚悟を新たにした次第である。
(「広島県立一中新聞」昭和22年12月23日号)