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広島市③

爆心地通過(相生橋)-鳴り響く"平和の鐘"-

この日、広島市内は文字通り人の波で埋まった。陛下が御通過の道路沿いは、何時間も前から人垣で身動きも取れない有様であった。広島市民20万のほか、近郊近在からの人手は広島駅を降り立った者で約5万、市内数百件の旅館が全て札止めになったと言う陛下のお顔を一目でも拝したいと願う20数万人が、草津町から元西練兵場、市役所、県庁、広島駅に至る15キロに押し寄せ万歳の歓呼を送ったのである。
草津町の水産試験場を出発したお車は、古江、己斐、旭橋とゆっくりと市内へ向かって進んでいった。沿道の家々は原爆で火災は免れたものの屋根瓦は飛び、壁は落ち、戸、障子は破れ、戦争の生々しい傷跡を残していた。旭橋を過ぎればそこはバラックの街であった。陛下は沿道を埋め熱烈な歓迎をする人々にお応えになりながらも、未だ広がる原爆の荒涼とした景色の中に立ち並ぶバラック建て住宅、数少ないながらも新築された建造物に深くお目を注がれたようにうかがえた。
午後11時25分、お車は相生橋にさしかかった。2年前の昭和20年8月6日、午前8時15分、上空580mで爆発、18万5千余名の生命を一瞬にして奪った原子爆弾の爆心地である。お車は時速4キロ、歩くような速さで、欄干が倒れ未だ50センチほどの穴も空いた相生橋を 進んでいった。陛下は元安川の上に浮かぶ"平和の塔"を車窓からじっと臨まれた。この時、平和塔上の"平和の鐘"がカーン!カーン!と冬空にこだました。同年8月6日、原爆二周年の日に建立され、打ち鳴らされて以来二度目の事である。それは広島市民の原爆の悲劇から立ち上がる決意と、平和への願いを込めて打ち鳴らした平和の鐘であった。相生橋はその時、まさに感激のるつぼと化した。橋を埋めた人々はドッ!とお車に崩れかかり、万歳!万歳!の声は、鐘の音と和して天地に響きわたった。

    広島(昭和22年)
  ああ広島平和の鐘もなりはじめたちなほりみえてうれしかりけり

この御歌は広島巡幸から27年後の昭和49年公刊の「あけぼの集」に於いて発表された。この御歌を拝する時、陛下が原爆を受けた広島に対して、どれほどの深い御心をよせられたかが拝察できる。
かくして陛下は産業奨励館のドーム(原爆ドーム)を右手に見られながら、旧護国神社大鳥居の下を御通過、午前10時30分、市民奉迎場へと進まれた。(この御歌は御在位60年を祝うにあたり、陛下の広島に寄せられた御心を後世に伝えるため広島市南区比治山公園に御製碑として建立された。

広島市民奉迎場 -涙の式典-

相生橋上での感激もさめやらぬ中、陛下は旧護国神社前の広島市民奉迎場にお成りになった。ここに於いて広島市にとって決して忘れる事の出来ない、日本人としての感動と喜びの場面が展開されたのであった。その感激を当時の広島市総務課長小野勝氏は次のように記している。

市民広場には朝まだきから戦災者、引揚者、遺家族、各種団体代表、学生、生徒、児童等を最前列に無慮5万の市民が整然と並んでお待ち申し上げていた。相生橋御通過を報ずる平和の鐘が響き渡るや群衆はひしめき合い始めた。整理員は御道筋の確保に懸命となる。御先駆車が式場に姿を現すや会衆の歓呼は爆発した。万歳、万歳、万歳......帽子が飛ぶ、ハンカチが舞う。御座所近くに御召自動車から降り立たれた陛下は、濱井市長の御先導で数歩を歩まれたが,待ちもうけた内外の奉迎者の群れは御身近くまでなだれ寄って御歩行も御難しいほどの熱狂ぶり...... 式場の一隅からは広島鉄道管理部吹奏楽団の君が代奏楽が始まる、熱狂も一時静まり君が代の合唱、おそらくは終戦後の広島として初めての国歌大合唱である。台上の陛下も御帽子をとられて共に君が代を口ずさまれる。何の涙?言い知れぬ国民感情の涙、拭うても拭うても流れる涙......。 やがて濱井市長は感激と興奮に緊張した面持ちで御座所前に進んだ、くり展げた奉書がかすかにふるう。

       奉迎の辞
謹んで広島市長濱井信三広島全市民を代表いたしまして奉迎のことばを申し上げます。天皇陛下にはこのたび御車を中国地方に進めさせられ本日親しく御健康な御姿に接することは吾等市民の真に感激に堪えないところでございます。わが広島市は昭和20年8月6日原子爆弾により壊滅的戦災を蒙りましたが、全市民は凡る艱難と闘いつつ新たなる文化都市建設のため日夜懸命の努力を重ねております。願わくは特種の戦災を蒙りました広島市に深き御心を御寄せ下さいますことを謹んで御願い申し上げます。陛下には無事御巡幸を終えさせられ愈々御健勝に御帰還遊ばされますよう御願い申し上げます。

力強い濱井市長の若々しい声に、陛下はじっと聞き入られた。市長が御前を退くと、ああ、その時、陛下には静かに御座所のマイクの前に進まれた。式場はドッとどよめく、陛下にはオーバーのポケットから小さな紙片の取り出された、御言葉だ、御間近に拝する御体から、今、直接御聞きする御声だ、5万の会衆の眼と耳はジッと陛下の御口元に集中された、涙も、声もない一瞬である。

       御 言 葉
「この度は皆の熱心なる歓迎を受けて嬉しく思う。
本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情はたえない。
我々はこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。」


一語一語、はっきりと力強く耳を心を打ったこの御言葉、原爆の惨苦をなめた市民に注がせ給う大御心の有難さ、かたじけなさ会衆はあの日の苦しみを一瞬忘れたごとく御声に聞き入った。。水を打ったような静けさも御言葉が終わると同時に破れた、どっと上がった万歳の声、再び飛ぶ帽子、舞うハンカチ、溢れる涙、こんな国民的感激を、こんな天皇と国民との感情の溶け合いを、何時、何処で、誰が味わったであろうか、市会議長寺田豊氏が唱えた万歳の姿も声も、眼に耳に入らぬ感激、興奮が渦巻いた。
 寺田議長の万歳が終わっても、陛下はしばし台上に留ませられ、群集の熱狂振りを御満足げに見入られた、そして御帽子を高く差し上げられて、再三、再四遠く、近く、左に右にいとも御ていねいな御会釈を賜りながら御座所を降りられ御機嫌麗しく御召車に入られた、時に10時35分、万歳の歓呼は止みもせず、御名残りを惜しむ市民の群れは涙とほこりにまみれながら御車を取り囲み御後を追うのであった。

(小野勝著 「天皇と広島」より転載)

天皇陛下を広島にお迎えして / 広島県立広島第一高等女学校 第二学年 児玉 蓮子

12月7日7時30分- 天皇陛下はいよいよ原爆の都広島の地をおふみになった。護国神社後まで奉迎に出ていた何万の市民は一目でも陛下を拝見しようと大人も子供も必死だった。陛下はいよいよ壇上にお立ちになった。我らの象徴たる天皇を眼前に拝して、私は何とも言えない感激に満たされた。陛下は間もなく広島市民に対しお言葉をかけられた。そのお言葉、そのお声、陛下は如何に我々広島市民の事を御案じになっていられるかがわかる。又陛下は志那事変、そして太平洋戦争でさえも、初めから御反対なさったとの事を、前に新聞で見たが陛下は本当に平和を心から愛されるお方だ。今こうしてお迎えしたのはまるで夢のような気がする。今までは天皇陛下とかけはなれていた私達だが、今こうして目の前にお姿を拝したり、又ラジオを通じたり直接お声を聞いたりすることの出来たのは私達にとっての大きな喜びである。そして今はもう、もったいない事ながら私たちのやさしいお父様のような気さえする。お風邪をめしながらも御巡幸になり、一々激励のお言葉をおかけになる陛下、おやさしくてお情深い陛下、これこそ平和日本のシンボルに適わしいお方だ。そして陛下は仁のお方だ。たとえ単なる人間になられたとしても天皇はどこまでも天皇だ、今後天皇を中心とした、平和な国が実現しなければうそだ。それには若き力が必要だ。私たちの力で、真の平和国家を建設して陛下に安心して頂きたい。「陛下やります。私達若き者の情熱をもって、平和日本の建設のためにどこまでもやり抜きます。」私は心の中でこうつぶやいた。

天皇陛下の行幸に際して / 広島女学院 三年二組 梶尾 善枝

10時半過、陛下は奉迎台の上にお立ちになった。一瞬緊張した空に破られた。手を、帽子を、ハンケチを、狂ったように振る。陛下は一寸帽子をおとりになり返礼遊ばされた、やがて静かにおこる国家「君が代は千代に八千代にさざれ石の...」 ああ!この時沸き上る感激の涙を誰が止め得ようぞ、長い間指折り数えてこの日をまっていた私達の天皇陛下が今こそ私達の前に御立ち遊ばされたのである。頬に流れ伝わる涙を拭おうともせず唯一生懸命に歌ったのであった。おやさしい温和そうなその御顔! そして一般の民と一寸も変わらぬ質素なお姿! 今日の奉迎者のなかには、きっときっと陛下のお召しになっている御洋服よりもっともっと立派なものを着ている人もあろうに! この寒空にあのような御洋服では御風邪をおめしになっていらっしゃるのに、ひどくおなりになりはせぬだろうか?...と心配であった。陛下の御日常も私たちと同じように御不自由なことが推察された。今や終戦後、3年になるのにまだ一寸もまとまりがつかず、陛下にもこんなに不自由な生活をおさせ申し上げることは非常に畏れ多いことではないか、これも皆んな私達の力が足りないからだと思うとあまりのはがゆさに又も涙が頬を伝うのであった。やがて広島市長の奉迎並びに報告の御挨拶がすんで陛下のお言葉を給った。拡声器を流れ出て来る陛下のおやさしい御声! やがて湧き起こる万歳の声、声のあらんかぎりを出して叫ぶ、 おお!陛下にはその御帽子をお取りになり高く高く差し上げて答礼遊ばれたではないか-万歳万歳!-終わりの方は熱いものが胸にこみ上げ喉がぐうぐうとなって声が出ない、唯手を力一杯振るのであった、そのうちに陛下は台をお下りになり御召車にめされて静かに御退場遊ばされたのである。じつに感激の一瞬間であった。ああ、いつまでもいつまでもこの感激の嵐の中にもまれていたかった。