TOP > 天皇陛下と広島 > 広島市①

広島市①

廿日市町御通過 -観光道路上の感激-

12月7日、午前9時20分、お召し艇で宮島口桟橋にお着きになった陛下は、ここからはお車にお乗りになり、いよいよ広島市へ向かって進まれた。国道の両側では陛下をお迎えする人々の「万歳!万歳!」の声が、お車が進むに従い寄せては返す波のようにこだましている。陛下はお車の窓にお顔を寄せられたまま、丁寧にご会釈を続けられていた。
そのときの情景を当時、広島県立第二中学校五年 林豊君は次のような文章に綴っている。
『廿日市御通過は、9時50分過ぎとの事だ。陛下の御宿地厳島は霧でかすみ、何となく威厳の趣をあたえる。気づかわれた天気も、どうやら晴れて瀬戸内海は美しく輝いて見える。9時過ぎと言うのに沿道は、はや奉迎の人で一杯だ。モーニング姿の紳士、紋付袴の人、和服洋服とそれぞれ着飾った人々が次々と人の列を作っていく。時計は9時50分を過ぎた。あたりはしんとする。地鳴りのような万歳の連呼が聞こえる。確かに万歳だ。しかし今度は近くで先駆車が通る。緊張の気がただよう。前部を朱塗りにした菊の御紋章輝く車。ガラスを通して陛下の御慈愛満ちた御顔が! 胸に何か熱いものがこみ上がってくるのを感じ、思わず万歳を叫んだ。自分だけではない。皆が皆、しかも腹底から。陛下は御満足そうにお手高く帽子をお振りになってお応えになった。ほんの瞬間的な出来事であったが、陛下と我々との間には一しおの親しさ、懐かしさを感じた。自動車は通過した。人々は感激に酔ってか暫く立ったままだった。』

広島戦災児育成所 -ほほをつたう陛下のお涙-

午前9時45分、白百合楽団の「君が代」吹奏の中、お車は、広島戦災児育成所の84名の戦災孤児がお待ち申し上げる佐伯郡五日市町吉見園前(現在広島市佐伯区)に静かに止まった。
広島戦災児育成所は、設立者で参議院議員の山下義信氏が県当局を通じて陛下の御視察をお願い申し上げていたものであり、同署は国道から外れ道幅も狭いため、園児・職員が国道筋までお出迎え申し上げていたのである。そして陛下の行幸を仰ぐ喜びを同所の保母松村さんは次のように述べている。
『何もかも不自由しながら奮闘したあの当時の苦労も夢でした。嬉しさで胸が一杯です。今日もお昼時に食べ盛りの男の子が御飯を残しますので聞きますと、やはり嬉しくて御飯が喉を通らないのだそうです。』
吉見園前の奉迎場には、最前列に前年11月、僧籍に入った5人の少年僧がいじらしい姿で並び、その後ろに各方面から寄せられた心づくしの衣装を身につけた79人の園児がお待ち申し上げていた。山下義信所長が前に進み出て、「陛下、広島の戦災児を収容している広島戦災児育成所孤児84名がお迎えしております。私は所長参議院議員山下義信でございます。」と申し上げると、陛下は、
「社会事業に尽力してくれてありがとう。しっかりやって下さい。」
と、おっしゃり、すぐ戦災児の前に立たれた。
そして最前列で、左手に数珠、右手に中啓を持ち、合掌するように静かに礼をする、黒染めの僧衣に身を包んだ5人の少年達にお目を止められた。このときの陛下のお顔は、「この子供達はどうしたの」と言うようなご表情であったが、山下所長から「陛下、この5人の子供達は西本願寺の僧侶になったのでございます。お目を止めて下さいまし。」との説明をお聞きになり、はじめて、
「ああ...そう。ああ...そう。」
とおうなずきになった。
この少年たちは、原爆で一瞬にして孤児になり、両親の菩提を弔うため前年11月15日、京都西本願寺で仏道に帰依した増田義修君(13歳)、谷口義春君(14歳)、今田義泰君(14歳)、川井義秀君(15歳)、河村義尚君(16歳)で、陛下はこの原爆少年僧一人一人の顔を覗き込まれる様にして、
「どうかしっかり勉強して下さいね。」 と、御心にあふれる何ものかを押さえるようにやさしくお諭しになった。少年僧たちの頬を止めどなく涙が流れた。
続いて山下所長は、藤田康男君(8歳)を指さし、「あの子供は原子爆弾の当日、火の中で助かりました子供でございます。(頭の傷の跡を示し)これを御覧下さいますように。原子爆弾の傷の跡でございます。今は良くなりまして、今日では健康になっております。」
と申し上げると、陛下は、
「どうぞ大事にしてしっかり勉強してね。」
と、お言葉をおかけになった。藤田君をはじめ子供達は、元気一杯の声で「ハイ!」とお答えした。
孤児の中には、爆心地近い袋町で原爆を受け、右目を失って今なお眼帯をかけ、頭に包帯をしたまま、お母さん(同所保母)に抱かれてお迎えした宮本六襄君(6歳)と、広島駅付近の猛火の中で、息絶えた母親の乳房をにぎって泣いているところを危うく救われた東エイ子ちゃん(3歳)の2人がいた。山下所長が東エイ子ちゃんの前で、「陛下、この子をここに連れて参りました時はまだ6ヶ月でございました。」と説明申し上げた。陛下の御目にはいたいけな幼い2人の姿がはっきりと映っていた。
「ああそう! 大きくなりましてね。大変でしょうがしっかりやって下さい。」
陛下の御目に光るものがみるみる溢れ、御頬をつたわった。陛下は泣いておられた。
一瞬、群集のざわめきは静まり
"天皇陛下は泣いておられる。"
との声が人々の中からもれた。いたるところからすすり泣きの声が起こった。
そこに集まった全ての人々は、その時、確かに大御心の深みに接していた。
山下所長が育成所の方向を指差しながら、「陛下、この子供達はあの向こうに赤い旗がずっと下がっております立派な建物...ずっと上の方に白い旗が立っておりますあの付近一帯の大変いい場所を貸していただきまして、県営建物でございますが、あそこで健やかに、お陰さまで幸せに過ごさしていただいております。」との説明に陛下は、
「ああそう!」
と、大きくうなずかれた後、今一度、立ち並ぶ84名の孤児のほうに近づいていかれた。そして一人一人の顔を御覧になりながら、
「大きくなって、立派な人になって下さいね。」
と、お別れの言葉を賜った。孤児達はある者は元気よく、ある者は泣きながら「ハイ!」とご返事申し上げた。「陛下、しっかりやります。」との山下所長の言葉を最後に陛下はお車に足を運ばれ、そして万歳!万歳!の声が轟く中をにこやかに次のご視察地へと進まれた。
山下所長は、去りゆくお車を眺めながら、「万感胸に満ちて思うていることが言葉になりません。ありがたいことです。」と語った。
広島戦災児育成所は、その後、昭和28年広島市に移管され、「童心園」「育成園」を経て、昭和48年4月、児童福祉施設としての歴史にピリオドを打った。171人の原爆孤児が育った育成所は、現在は新興住宅に囲まれ、授産施設に姿を変えている。しかし、ここに育ち、陛下の限りない御心にふれ、暖かい励ましのお言葉をいただき、そして今は全国に散らばっている原爆孤児にとって、ここ「皆賀の里」はいつまでも変わらない心のふるさとになっている。

再起を願う原爆の子 -亡き父母を慕い出家の少年僧-

陛下が広島戦災児育成所で御激励になった5人の少年僧は、全国に報道され大きな感動を巻き起こした。
育成所は五島列島から復員してきた山下義信氏が、原爆孤児の悲惨な状態に心を痛め、私財を投げうって開いたものであった。山下氏が熱心な宗教家であったため、育成所では宗教教育が重視された。子供達は所内に設けられた童心寺の鐘を合図に起床、朝食時にお参りし、正心、十二礼のお経を上げる毎日であった。こうした中で自然と「原爆少年僧」として知られた5人が生まれたのである。子供たちが仏門に入るようになった経緯を、山下氏は後に感動を込めてこう記している。
ある日の午後、晩秋の日が西に回って、うすら寒い風が肌に感ずるような日であった。増田義修君が、はるかに宮島あたりの空を眺めながら、「お母さんに会いたい。」と言って泣き出した。この子は近頃、この丘の上から向こうの海や空を眺めて、ぼんやりとたたずんでいる事がしばしばあった。
「おじいちゃん。どうしたらお母さんに会えるの。」
「.........」
「おじいちゃん、お坊さんになったらお母さんに会えるの。」
私は黙っている事が出来なくなり思わず
ああ、会えるよ。」と答えていた。
僕はお坊さんになりたい。おじいちゃん、お坊さんにしてください。」
増田君はその時12歳の少年であった。父は戦時中に病没し、母と二人で暮らしていた。髪結いだった母は、原爆で悲惨な最期を遂げた。増田君の希望は、わずか12歳の少年の希望である。取り上げるにはあまりに重大な事である。私はこの時、一生懸命考えた。10年20年の将来について考えた。成人の後、果たして彼がいかなる運命になるかについて深く考えた。......そして増田君の得度に同意しようと決心した。ほかに希望する少年があるかと数人の男の子を集めて聞いてみた。河村義尚、川井義秀、谷口義春、今田義泰の四君が得度を希望した。......白衣、袈裟、自足袋などの用意をしなければならなかった。自足袋は五日市の松村さんが寄付して下さった。白衣は保母さんたちが涙でこれを縫い上げた。」
(育成の記録第三章より)

昭和21年11月15日、京都の西山別院で1週間の習礼を終えた5人の少年達は、西本願寺で得度式を済ませ、少年僧としての第一歩を踏み出したのである。
少年僧の一人、朝倉義修氏(旧姓増田)は、現在49歳(当時)、真宗大谷派山陽教務所長として多忙な日々を送っている。朝倉氏は昭和22年の天皇陛下の育成所行幸を振り返って次のように語っている。
「正直言って当時は幼くて子の重大性がわからなかった。ときに触れて語られる先生方の話を通じてだんだん日を経るごとに実感が湧いてきたのです。(陛下のお言葉)一言でしたけどその中に込められている願いを受けて、真面目にやらんといかんな、と思って現在まで来ました。」
ここにも、陛下の行幸時のお言葉を支えに、戦後を強く生き抜いたひとつのドラマがある。