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五内為ニ裂ク

日本民族は、民族の伝統として最も誠実に生きる道義というものに最高に価値を求めた。その民族の良心の鑑として御歴代の天皇と皇室は、天皇、皇室でなければ成し得ることのできない貴重な伝統を堅守なされつづけた。それは不断に民安かれ国安かれとの御一念と御一身をひたすらに国民のために捧げつづけられたことであったため、我々日本民族は、その誠実な道義というものに最高の価値を見い出し、天皇と皇室に対して限りない敬仰しつづけたのであった。
         社頭寒梅(昭和二十年)
   風さむきしもよの月に世を祈るひろまへ清くうめかをるなり
これは昭和二十年、すなわち敗戦の年の陛下(注:昭和天皇)の御歌である。この御歌をお詠みになった陛下の御心はどのようなものであったのか。この大御歌を拝する時、我々は、この一言一句からおそらくこれ以上はないであろうほどの悲痛な旋律を聞く思いがする。「寒梅」「寒風」「霜夜」「月」「ひろま」の一字一句には、群がる苦痛がそのまま凍りつくような、寒々としたそこは見渡すかぎりの荒涼とした世界をみるのである。
亀井勝一郎は、この大御歌を拝して次のように言った。
   これが国の生死を賭した戦乱の渦中の御歌だということが私を驚かせた
   寒風の吹く霜夜の月に、御ひとり目ざめ給うて、ただ祈るより他になき
   悲哀の極みを垣間見申しあげたような気がする。陛下は孤独であらせら
   れる。暗黒の中に、わずかに白く浮いて咲く一輪の梅花に、陛下は希望
   とは言いかねる希望を託しておられた。
戦局の破綻による敗戦への道のりを歩む日本であった。その敗戦に向かう速度はだんだんと速くなる。陛下は昭和悲劇の絶頂への足音をお聞きになったであろうか。おそらく御心痛のあまり、夜もお休みになられない日々であったに違いない。これほど御心を痛めつづけられても陛下の御立場は、ただお祈りされるより他になすすべなく、一すじにお祈りなされ御軫念なされお苦しみなされつづけたのであった。
「世を祈る」、この一句には陛下の万感の御祈念がこもっている。これだけが陛下にとって全てであらせられた。さらにその御祈念とは、
   爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかにならむとも
   身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
   国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
という御歌のように国民をお護り下さるため「身はいかにならむとも」という捨身の御覚悟と「いばら道をすすみゆく」との御決意なのであった。
昭和二十年一月、米軍ルソン島上陸、三月、東京大空襲、硫黄島全滅、六月沖縄守備軍全滅、八月六日つづいて九日、広島、長崎の原爆投下、ソ連対日参戦と続き、ついにはポツダム宣言を受諾し、陛下は終戦の詔りをなされることになる。明治天皇以来、「君臨すれど統治せず」と、あれほど律儀に立憲君主の政体に影響を及ぼしはしないかと御政務向きに批判をなされたり、意見を表にお表しにならず憲法に忠実であらせられた陛下が万感の極に至る御一念で超非常の御聖断を下されたのである。
 「本土決戦か、あるいは、ポツダム宣言の受諾による降伏か」という決断の時、昭和二十年八月十日、時刻は正午近く、陛下の御前での最高戦争指導会議で意見がわかれ、ついに鈴木貫太郎内閣総理大臣は「意見の一致をみませぬので、ここで陛下のご聖断を仰ぎます。」と陛下に御伺いした。陛下は静かにお立ちになった。
     御  諚
  他に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、
  私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを充分検討
  した結果、これ以上戦争を続けること無理だと考える。国体問題についていろいろ疑義があ
  るとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと
  解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのは一応もっともだが、私はそう疑いたく
  ない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うからこの際先方の申し入れを受諾し
  てよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。さらに陸海軍の将兵にとって武装の
  解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持ちは私にはよくわ
  かる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局
  我が邦がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私にとってじつに
  耐え難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方のやり方に
  全幅の信頼を措き難いのは当然であるが、日本が全く無くなるという結果にくらべて、少し
  でも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。私は明治大帝が涙を
  のんで思いきられた三国干渉当時の御苦衷の忍び難きを偲び、一致協力将来の回復に立ち直り
  たいと思う。今日まで戦場に在って陣歿し、あるいは殉職して非命にたおれた者、またその遺
  族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者
  の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもい
  とわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には
  今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺もはなはだしかろう。
  陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことで
  あろうが、どうか私の心持ちをよく理解して陸海軍大臣はともに努力し、よく治まるようにし
  て貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろ
  うから政府はさっそくその起案をしてもらいたい。以上は私の考えである。
長い引用であるがこの御諚はこの日の御前会議に列席した下村宏国務大臣内閣情報局総裁が書き写したものである。さらに下村総裁はこの御前会議の様子をその著『終戦秘史』の中で、次に述べている。
  御諚を承っているうちに頭は次第に下がっておもてを上げる者もいない。忍び泣く声がここ
  にかしこに聞こえる。御言葉のふしぶしに胸を打たれる。たとえ我が一身はいかにあろうと
  も、国は焦土と化し、国民を戦火に失い、何として祖宗の霊にこたえんやという御心を拝し
  て涕泣の声は次第に高まってくる。さらに為すべきことはいとはない。マイクの前に立って
  もよいと仰せらるるに至り、忍び声も止めもあえず声を上げた。ここにもそこにもせき上げ
  しゃくり上げる声が次第に高くなる。陛下の白い手袋の指はしばしば眼鏡を拭われ、ほおを
  なでられたが、私たちはとても正視するに堪えない。涙に眼鏡もくもってしまった。御諚が
  終りて満室ただすすり泣くばかりである。しゃくり上げる声ばかりである。
と、この歴史的な御前会議の情況をつぶさに報告している。この項も長い引用であるが、我が民族の歴史の中で最も重要なところなので、そのまま引用させていただいたが説明の必要はないだろう。ただ、陛下が民族悲劇の先頭にお立ちになり国民を滅亡の危機から救わんとの御心からでた陛下の御言葉がいかに強く御前会議に列席した人々の心をうったかがしのばれる。
こうして大東亜戦争は終りを告げることとなり、こうして日本は救われたのだった。このことに陛下もお泣きになった。国民も号泣した。これが昭和史が涙によって書かれた日なのである。陛下は終戦の詔で戦死した者、またその遺族のことを思う時、「五内為ニ裂ク」と仰せられたがこの一語は葦津珍彦氏のいうように「死よりも遥かにまさる苦しみを意味する。それは、地獄の業火になかに立って、なお死ぬことのできないほどの極限の苦しみ」なのであった。それほどの苦しみになかで陛下は御聖断を下されたのであった。多くの国民は、強い衝撃を受けたが、この陛下の御気持ちをよく理解し、その意味の深さに慟哭したのであった。それゆえに屈辱的な敗戦にもかかわらず大きな混乱もなく平穏に終戦することができたのである。
日本が滅びるかもしれない。そういう時に天皇陛下は神であらせられた。それは神でなくしては成り得ないであろう御自分の御身と引き替えに国民を救われたのである。平和主義に徹せられた陛下は当然この戦争には反対であらせられた。この陛下の意に反した開戦であったが、立憲君主として憲法に忠実であらせられ、責任ある機関で決定したことであるから止むを得ず開戦を裁可されたのであった。このことは昭和史の研究の進んだ今日では誰もが知る通りである。それにもかかわらず、陛下は万民の命に代えて御身を捨てる御決意であった。さらにはこの敗戦の責任を御一人でうけて立とうとなされたのである。何というありがたいことであろうか。我が民族の歴史ある限り、この「昭和の偉大なる敗北」の日は民族の生命の輝きとして忘れられることはないであろう。