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8月15日 戦歿者追悼平和祈念の集い(広島)

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平成25年 戦歿者追悼平和祈念の集い
 戦歿者を追悼し、英霊に感謝の誠を捧げる8月15日。 
 
平成25年8月15日(木)
10:00~ 英霊感謝祭 *広島護国神社主催
10:50~ 平和祈念の集い
12:40 閉会

場 所  広島護国神社 参集殿 広島市中区基町 *駐車場あり
参加費 1,000円 学生無料
●お申し込み方法 電話、FAX,E-MAILにてお申し込みください。

電話(082)831-6205 FAX(082)831-6206 事務局
メール info@jp-pride.com

 
  
★記念講演
沖縄県民斯く戦へり 
 ~知ってほしい 真の沖縄
 
生徒たちの晴れやかな顔は、御国にご奉公できる、純粋なよろこびで輝いていた」
沖縄県立第三高等女学校教諭の手記より
 
講師 鈴木由充氏 (すずき・よしみつ)
    月刊誌『祖国と青年』編集長

昭和46年、愛知県生まれ。
平成6年、早稲田大学教育学部卒。
平成9年から日本青年協議会「祖国と青年」編集部。
特に、皇室のご動静や戦歿者慰霊についての取材に取り組み、平成19~20年、天皇陛下御即位20年奉祝記念映画「平成のご巡幸」制作に携わる。
平成22年8月より同誌編集長。同誌平成23年9月号~平成24年12月号に「沖縄県民斯く戦へり」を連載。


「沖縄県民斯く戦へり」
  十月十日、米軍空母艦載機が那覇を襲った。午前七時前から午後四時前までほぼ丸一日、五次にわたって行われた空襲で、市街地の九割が焼失し、死者六百六十八名を出した。米軍は、フィリピン反攻への牽制としてこの空襲を行ったのだが、沖縄では「いよいよ米軍が沖縄に進攻か」と一気に緊張感が走った。
 この、沖縄における「初めての戦争体験」ともいうべき那覇空襲を、那覇近くの中学生、女学生たちはどのように受け止めたであろうか。
 首里の沖縄県立第一中学の校門には、空襲の翌日、「当分の間、休校とする。別命あるまで自宅待機」の掲示が貼られた。にもかかわらず、上級生を中心に登校できる生徒は学校に赴き、軍作業に従事したという。軍はそれほどまでして、自分たちの陣地構築を優先させたかったのであろうか。そうではない。生徒たちは自宅待機などしていられなかったのだ。
 沖縄一中の五年生だった武富良浩氏は、当時の生徒たちの気持ちについて、次のように語っている。
「被害者意識ばかりを強調する今どきの沖縄戦研究者にかかると『軍国主義に毒されていた』の一言で片付けてしまうのですが、少なくとも私たち上級生は『我々にも学校教練で鍛えた戦闘能力がいくらかはあるのだから、敵上陸という事態になれば、学校から言われなくても軍の特攻基地がある与那原(島尻郡大里村)に集結し、迎え撃とう』と申し合わせるほど、国を護る気概に燃えていました。自宅待機だからといって、漫然と家にいるべきではない、というのが当時の私たちの正直な気持ちでした」
 また、沖縄一中よりさらに那覇に近い沖縄師範学校女子部本科二年の新里キサさん(後に沖縄戦で戦死)は、空襲から約一カ月後の十一月十五日、疎開した妹に宛てて次のように記している。
「十月十日の忘れることの出来ないあの空襲、あれから早一カ月余り経ています。思い出すだに身ぶるいがします。然し皆はもう落ち着いています。一時は休校になっていた学校も既に復校するようになりました。決戦下空襲は必然的なものなので、それ程不思議に恐怖を抱いていません」
 彼女の家は、妹だけでなく、家族みなが本土の縁故を頼って疎開していたのだろう。あなたも早くこちらに来て家族一緒に暮らしましょう、という家族の心配に、彼女は心から感謝しつつも、次のように記すのである。
「貴方やお家の人が私達のことを気遣って下さるお心に私は感謝で只只涙が出るばかりです。ほんとに皆一緒に生活出来たらどんなに嬉しいことでしょう。想像するだけでも心がわくわく嬉しさに躍ります。お母様からも是非来るようにとのお手紙を頂いて泣きに泣きました。(中略)後五カ月もすれば卒業だし卒業を前に控えてそちらに行くのは何だか逃げるみたいですから止めます。(中略)こちらもほんとに決戦の場ですからここにいる私達も兵隊になった気持でいます。ですから今は無き者だと思っていれば何ともないでしょう。二週間に一度の休養日を楽しみに毎日作業、増産に励んでいます」
「敵上陸という事態になれば、軍の特攻基地がある与那原に集結し、迎え撃とう」と確かめ合う中学生、「こちらも決戦の場ですから、私達も兵隊になった気持でいます」と言って学校に留まる女学生――決戦前夜の沖縄は、紛れもなく、こうした人々の間に漲る「国を護る気概」によって支えられていたのである。
  鈴木由充 「祖国と青年」平成24年1月号より抜粋、


 避難することを拒否し、自ら戦いに赴くことを選び取ったのは、伊江島女子救護班だけの特殊な話ではない。「ひめゆり」をはじめとする女子看護隊においても、同様の光景はあちらこちらで見られた。
 一例をあげれば、伊江島の対岸の本部半島にあった沖縄県立第三高等女学校の川畑篤郎教諭は、「なごらん学徒隊」に志願するある女学生の様子を、次のように手記に書き残している。少し長いが、前後の状況も含めてそのまま引用する。
「国頭支隊として、宇土部隊が、本部半島の山岳地帯を守備することになってから、通信隊や、高射砲隊の陣地が構築された。
 本校生徒も、阿波根教諭、新里教諭が引率して、生徒を二分団に分け、交替で本部陣地の構築に従事した。
 一方、軍の要請によって、本校三、四年生に対し、看護教育を実施することになり、部隊から軍医や衛生兵の下士官が来校して、看護の実習教育が行われた。生徒たちのどの顔も真剣そのものだった。
 昭和二十年の三月に入ると、事態はいよいよ急迫し、もはや敵の進攻は疑う余地もなかった。
 やがて看護教育を受けている生徒に対し、軍から正式に従軍看護婦としての募集が行われた。
 生徒たちは一人残らず志願した。しかし、学校としては父兄の許可を得る必要があるので、数日間の余裕を与えて、生徒たちを家族の許に帰した。
 ある夜、私が学校の事務室で仕事をしていると、郵便局長の娘である四年生の生徒が、その父親と電話しているのが聞える。
『お父さん、私も行っていいでしょう? 御国の大事な時です。ご奉公したいんです。お友だちはみんな行くと言っています。お願いですからぜひ行かせて下さい』
 電話の向うにいる彼女の父親が、何と答えているのかは、知ることもできなかったが、ただ、この懸命な娘の願いに対して、心の底で心配している様子が、私の胸にも伝わってくるようだった。私はその時思った。もし私が父親の立場だったら、果して何と答えるであろうかと――。
 家族の許に一時帰った生徒たちは、父兄の承諾をもらって学校に集まって来た。
 軍からトラックが迎えに来た。生徒たちは、名護国民学校前から、数名の職員に送られて任地へ赴いて行った。生徒たちの晴れやかな顔は、御国にご奉公できる、純粋なよろこびで輝いていた。いまそのひとりひとりの教え子たちの面影をしのぶと、頬に涙が流れてくる」
 当時の女学生たちの間に張り詰めていた空気が、そのまま伝わってくるようである。「生徒たちの晴れやかな顔は、御国にご奉公できる、純粋なよろこびで輝いていた」というのは、女学生の真摯さに触れた教師の、嘘偽りのない感想だっただろう。
   鈴木由充 「祖国と青年」平成23年12月号より抜粋