TOP > 更新情報 > 8.6講演会参加者からの投稿 「核兵器廃絶は可能か」
平成22年8月31日
核兵器廃絶は可能か
田母神講演を拝聴して
川端健三
私はつくづく自分が間違っていればどんなに良いだろう、と思う。
つまり、護憲論者の言う様に戦後日本の平和は戦争放棄の憲法第9条によって守られ、65年間日本がついぞ戦火に遭う事の無かったのはそのおかげであったのならどんなに良いだろう。
あるいはまた、核兵器を廃絶する事によって世界は平和になり、世界中の人達が仲良く幸せに暮らせる世の中が来るのであれば、そんな世界が可能なのであればどんなに良いだろう、と思うのである。
しかし、残念ながら(勿論、この残念という意味は護憲論者あるいは核兵器廃絶論者にとって残念だ、というだけではなく、私にとっても残念だ、という意味である。)、彼等の言う事をいくら謙虚に拝聴しても、何度その書かれた物を熟読しても、私には彼等の主張する事が到底現実とは、あるいは実現可能なビジョンだと思えないのである。
まず最初にひとつ確認しておきたいが、護憲論者あるいは核兵器廃絶論者の方々は間違いなく平和を希求する方々であろう。中にはそうした姿勢を装うて特定の思想、特定の国に与する偽善者、卑怯者(秋葉広島市長は知ってか知らずでか(知らない筈はないが)、あれだけ声高に核の廃絶を訴えながら中国の核については全く言及しない)がいるのは承知しているが、この際そうした不逞の輩の事は埒外に置こう。とりあえずはその主張の純粋性は疑わないでおきたい。
その上ではっきりと断っておきたいのは私のような憲法改定論者あるいは核兵器擁護論者も平和を希求する者である、という事である。
極めて当然の話なのだが、時として反対の立場の方々から我々は好戦論者のように言われる事が多いからである。
『百年兵を養うはただ平和を守るためである』という山本五十六の言葉を噛みしめていただきたい。核兵器擁護論者が、再軍備の必要性を訴える者は戦いを好む、というのは大変な誤解である、と言わねばならない。
究極の目標は同じである。目標に到達するための方法論が違うだけである。ただし、その方法論は水と油のごとくまったく異なって、まるで真反対の方向を向いているように見える。では、その水と油はどのようにちがっているか。
私はその主義、主張の前に、イデオロギーの違いを云々する以前に護憲論者あるいは核兵器廃絶論者の方々は「無責任」だと思う。
心底、この日本のことを思い、その将来を憂うるのであれば、その重責を自覚すれば、理想はともかく、とても本気で憲法第9条護持とか闇雲に核兵器廃絶、核の傘からの離脱などと言う主張は出来ないのではないか。到底そんな無責任な事は言えないのではないか。そんな事が言えるのは日本を守る自覚が、責任感がないからではないか。
憲法の条文ひとつで国の安全と平和が守られるてきたかどうか。ごく平易に考えてみれば答えは自ずと明らかではないか。そんな馬鹿な道理が国際社会で通用する筈もないではないか。65年間、日本が戦火に遭う事の無かったのはひとえに日米安保(つまりアメリカの軍備)と自衛隊のおかげである。
この点に関してはまったく疑問の余地はない。条文ひとつで日本が守られてきた、などと考えているのはまったく現実を見ることのないよほどお目出度い人か、ある種のイデオロギーに固まった嘘つきである。
核兵器廃絶に関しては私には彼等の主張する事は現実を忘れた理想、厳しい言い方をすれば世迷い事にしか聞こえない。
あの菅直人をして、岡田克也ですら、『核の抑止力は必要』と答えた現実をみなければならない。これが政権を担当する者の必要最低限度の責任というものであろう。被爆都市の市長のように「無責任」に理想を、核の傘からの離脱、非核三原則の法制化を展開をすればそれで由し、という訳にはいかないのである。
核の傘から離脱して、どうやって日本の安全を守るのか。その点に関する答えも用意しないで、ただただ離脱を叫ぶのは無責任極まりなく、『警察なんか必要ない』と言うに等しい。
あるいはまた、『今日、日本に攻めてくる国など北朝鮮を含めて世界中どこにもないから国防なんか必要ない』などと言う人もあるが、平和ボケも極まれり、と言わざるを得ない。
かつて第二次大戦前、ナチスの勢力伸長を背景に『英国の仮想敵国はどこか』と聞かれた時の英国首相チャーチルは『英国以外の全ての国』と答えている。これが国を守る気概、覚悟というものである。
ただ今現在日本を侵略しようとする国が仮にこの地球上になかったとして明日宇宙からエイリアンが攻めて来る事かも知れない、などと言えば悪い冗談だ、と人は言うだろうか。それでも、それは明日には冗談ではなくなるかも知れない。そうした事態に備えるのが国防と言う事なのである。
再び、言う。百年兵を養うはただ一日にこれを用いんがためである。
非核三原則(私は「語らせず」の4原則だ、と思う。核についてのまっとうな議論さえこの国ではタブーである。)の法制化については何故、非核三原則を蔑ろにするような密約があったのかを考えてみれば自ずと答えは明らかだろう。
核の持ち込みを拒否する事(そんな事はすべきでないが)は事実上不可能に近いが、当時の国民感情を考えれば密約にせざるを得なかった、ということだろう。国を守る者は時として国民をも欺くような事態も覚悟しなければならない。このあたりはポピュリズムを揶揄されるどこかの政治家には決してやれない政策であろう。
良く言われるように核の傘に守られながら核不拡散を唱えるのも矛盾なら核の傘に守られながら核の持ち込みを拒否するのはもっと甚だしい矛盾である。
大体、核の持ち込みと、言うより一時寄港とでも言った方が実状に近いような状態なのに、(沖縄返還前後の当時ではなくて)今現在でもノーと言うのは、これはもう論理的帰結などではなくてアレルギーと言うかヒステリー症状とでも言うしかない。
核の持ち込み拒否が不可能事ならば、時の政府の苦衷の決断を察すれば、するべきは非核三原則の法制化などではなくて、三原則破綻以後はむしろ非核三原則の見直し、もっと直裁に言えば当然持ち込ませる事を決議すべきであろうに非核三原則を徹底、法制化しろ、などと言うのだからお話にならない。おとぎの国にでも行かれたらどうか。
田母神講演について語ろう。昨年に続いて二度目の拝聴であるが、氏の主張には些かのブレもない。
ただし、周囲の情勢は昨年とは大きく異なったらしい。昨年は秋葉広島市長の延期要請などもあったが、今年は「無視」であったらしい。田母神氏が市長に送られた公開質問状にも返事があったようには聞いていない。どうやら相手にしない方が得策と判断したようである。
しかし、真に平和を、核兵器廃絶を願うのならば耳に心地よい意見ばかりでなく反対意見にこそ耳を傾けるべきではないか。
自分達の主張だけを金科玉条にして反対意見に耳を貸さないのでは頑迷固陋と言われても仕方があるまい。
自分達の主張が大切であればあるほど、反対意見を歓迎してこそ理性ある態度と言えるのではないか。
私事だが、昨年田母神講演の開催に反対意見が多い事を知り、中国新聞の「広場欄」に『核兵器廃絶、あるいは被爆者追悼を真に望むのなら反対意見をこそ聞く耳を持たなければいけないのではないか』という投稿をした事がある。田母神氏の主張に賛成だ、とは一言も言っていない。『私の意見は少数派であろうか。しかし、私は核兵器で武装すべきだ、と言っているのではない。異論を排斥すべきではない、と言っているにすぎない』と予防線まで張っておいたが、(文章の拙さ故と思いたいが)採用されなかった。
以後、注意深く読んでいるつもりだが、憲法第9条の護憲論者や核兵器廃絶論者の意見は大抵「広場欄」の一番目立つ場所に採用される事が多いのにその反対の意見は殆ど目にする事がないように思えるのはあながち私の僻みばかりではあるまい。
また、以前には掲載される事もあった私の投稿はこの件に限らず以後どのような内容のものでもついぞ採用される事はなくなった。ブラックリストにでも載ったのであろうか。
聞けば今回の講演にも出席された従来の被爆者達とは考えを異にする「平和と安全を求める被爆者たちの会」の方達が公民館や区役所などにポスターの貼付をお願いに回られてもどこでも断られた、と聞いている。何故、異論を封殺するのであろう。
これが個人の住宅だ、と言うのであればポスターを貼れば人はその主張に賛同している、と見がちであるからその趣旨に反対なのであれば貼付を拒否するのは理解できる。
しかし、公的機関はそうではあるまい。 新聞は勿論だが、公的機関なら広く多くの意見を紹介するのはある意味では義務のひとつとも言えるのではないか。
今年の田母神講演について立場の違う両者の意見が掲載されたのは私の知る限りでは8月4日付けの産經新聞に載った田母神氏と原爆の語り部と言われる原宏司氏の往復書簡しかない。
今まで反対意見の貴重さについて縷々述べてきたのだから田母神氏は勿論、原宏司氏の意見に謙虚に耳を傾けてみよう。
従来からの主張であるが、核兵器は防御の兵器、核兵器は抑止力として役に立つという田母神氏の主張は説得力がある。使えば終わり、と言う事を誰しも知っているから使えない。核戦争に勝者はいない、と言う訳である。
さらに、核兵器は戦力の均衡を必要としない、という発想は私にとっては目から鱗であった。
言われてみればたしかにその通りで、通常兵器であればその戦力の大きい方が有利であるから戦力の不均衡なところ火種が生ずる危険があるが、核兵器であれば千発対一発でもその一発で壊滅的打撃を受けるから、ただの一発でも抑止たりえるのである。
原宏司氏は何と言っているか。順を追って見てみよう。
まず原爆の悲惨さを訴えておられる。当事者でなければ語れない貴重な内容で、この点には無論異論はない。
続いて『田母神の主張は表現の自由があるから否定はしないが、何故8月6日の広島でなければいけないのか、被爆者への挑発、挑戦としか思えない』とおっしゃる。しかし、この点に関しては私は去年の田母神講演の感想で述べたが、田母神講演は8月6日の広島こそふさわしいと思う。最も平和について思いを致す時と場所であるからこそ、より一層の意味、意義があるのではないか。
何故、核兵器廃絶論者の人々はそうした日にこそ核兵器について真剣に考えてみよう、討議してみよう、とは思われないのであろう。それとも、そうした人々にとっては最早核兵器の是非は議論の余地のない事なのであろうか。そうした思考停止の状態こそが実は最も危険なのだ、とは思われないのであろうか。
続いて原氏は『田母神氏のような人が自衛隊のトップにいた事が信じられない』とおっしゃる。しかし、自衛隊のトップのように現実に国の防衛にタッチしなければならない立場の人だったからこそ、無意味に無責任に『平和、平和』と唱えていればそれで良い立場の人ではなかったからこそ、こうした考えに立ち至ったのでは、と考える事はできないだろうか。
核武装しないと他国の侵略に対抗できない、という田母神氏の主張に対しては、『被爆者とは正反対の考えだ』、『核武装していったいどこを攻めるのか』、『核兵器の悲惨さは実際に体験した人にしかわからない』と、おっしゃる。
核兵器の悲惨さについてはその通りであろう。悲惨さについては充分理解しているつもりでも実態については想像するしかない。伝えるべき事があれば実体験者としてどうか声を大にして伝えていただきたい。
しかし、体験者故の偏見と言う事もある。あまりに悲惨な体験故に対処方法を誤ってはならないのは言うまでもない。
田母神氏と正反対の考えは良いとして、では、どうやって他国の侵略に対抗するのか、という問いに対する答えは用意されていない。
どこを攻めるのか、という問いは無意味である。田母神はどこも攻めるなどとは言っていない。そうではなくて田母神氏は核兵器は抑止の兵器だ、と言っているのである。相手の言ってもいない事に反論したり、異を唱えるのは聞き違いでなければ、誠実な態度とは言えない。
原氏の真摯さを疑いたくはないから、恐らくは思い込みから来る聞き違いであろう、と思いたいが、実は核兵器廃絶論者や護憲論者にはそうした誤解をする人が大変多い。自らの主張を絶対視するあまりの勇み足であろう。
『北朝鮮や軍事費が増大している中国の事が田母神氏の念頭にあるのであろうが、核武装で対抗するのは反対だ』とおっしゃる。対抗するのは『外交だ、平和外交だ』と。
平和外交の必要性は言うまでもない。好んで戦争する者などどこにもいない。平和外交は論争以前の大前提である。
その上で、田母神氏は平和裏に外交を推進するために核武装が必要なのだ、と主張している。それに対する論理的反論、つまり核武装などしなくても外交交渉は行える、と主張するのなら、どのようにすれば、絵空事ではなく、そんな交渉が可能なのかを示すべきであろうが、そのような用意は全く見られない。
核兵器が防御のための兵器だ、という主張は『理解できない』とおっしゃるだけでこれまた何故、理解できないのかの説明はない。どういった部分がどのように理解できないかを説明しなければ単なる感情的反発としか聞こえない。
オバマ大統領のプラハ演説を随分称揚しておられるが、田母神氏のこの演説の見方は全く異なる。どちらが正鵠を射ているかはわからないが、ひとつだけはっきりしている事がある。
いかなる国の代表者も自国の国益に沿わない政策を行なう事はないし、国益に沿わない声明を発表する事はない、と言う事実である。(ただし、日本という国だけは例外である。この国の代表者は自国の国益を損なう事を嬉々として行って恬として恥じるところがない。)
氏は最後に『平和の灯が消える日が必ず来る(核兵器が無くなると、平和の灯は消える)』と、結んでおられる。これは何らかの確証に基づく未来に訪れる現実ではなく、氏の願望、信念である。
揺るがない信念を保持されるのは結構だが、事実と信念を混同してはならない。
核兵器廃絶論者や護憲論者の主張は現実を直視する事があまりに少なく、その主張には論理的反対意見と言うよりも感情的反発としか思えない部分が多過ぎる。失礼ながら、原氏もその点では同じ陥穽に陥っておられるのではないか。
たしかに田母神氏の唱える平和は不気味な平和である。徒手空拳で守られる平和とは違う、(核)兵器によって守られる平和は何となく居心地が悪い。
冒頭にも述べた。核兵器廃絶論者が言う様に、核兵器廃絶を唱えるだけで、何もしないでも(私には現在核兵器廃絶論者が世界中で行っている活動は失礼ながら単なる単なる自慰的行為にしか見えない)平和が保たれるのならこんなに楽で、良いことはない。
しかし、現実世界を見渡した時、少なくとも今のところ、核に限らず、軍備の備え無しに平和を守る方策はありそうにない。
もう一度、言おう。警察なんてなくても世界中から犯罪がなくなるのであれば、こんなに良い事はない。しかし、そんな世界はあり得る筈がない。到底実現不可能である。
今回の田母神講演に先立って「平和と安全を求める被爆者たちの会」の方によって式典では読まれない「もうひとつの平和宣言」が朗読された。
今日平和であることは、明日の平和を保証しないのです。
明日に連なる実効的な努力の継続だけが、永続する平和
への扉を開くのだと確信します。
「明日に連なる実効的な努力の継続」、その言や、佳し。
お題目を唱えるだけではない。悲鳴をあげるだけでもない。
我々が決して忘れてはならないのは実効的な努力の継続に違いない。そうした姿勢こそが「永続する平和への扉を開」き、何時の日か本当の平和を招来するであろう。