講演会参加者の方より
8/27 講演会参加者の方より頂いたメッセージを追加掲載いたしました。
NEW の表記のメッセージがこの度ご紹介させていただいたメッセージとなります。

NEW
田母神氏の広島での講演「ヒロシマの平和を疑う」について語るにあたっては、事の順序として、講演の内容にふれる前に、まずこの講演の開催日時をめぐる一連の動きについて語らねばならない。
8月6日と予定されたその日は言うまでもなく64年前に広島に原爆が投下された日であり、広島にとっては特別な日である。
その特別な日に日頃、日本の核武装の必要性までも主張する田母神氏の講演が予定された事に対して、そうした講演をその日に行うのは相応しくないから、「配慮」して延期せよ、と言う反対の声が挙がった。しかし、主催者の声を借りるまでもなく、主催者側が講演日時を敢えてその日にしたであろう事は想像に難くない。彼等は講演日時を8月6日とすることで講演がより意義深いものになる、と「熟慮」して英断したのであろう。

言論、表現の自由は民主主義の根幹をなす権利であり、当然守られねばならない権利である。
しかし、危険を承知で敢えて言えば、表現の自由を錦の御旗に何らかの主張が語られる時、私はそこに何かしら禍々しい感じをいだき、胡散臭さを嗅ぐ事が多かった。本来ならば許される筈のない主張、思想を「表現の自由」なる御題目を盾にして展開する。到底理解、首肯できないような内容がそこに盛り込まれていた事、一再でない。
無限定の自由に私は何時もある種の危惧を感じてきた。
卑近な例を挙げよう。先だって行われた光市母子殺害事件でのあの大量弁護団による主張である。
如何に言論の自由とは言え、もしもこうした荒唐無稽とでも言うべき主張が許されるとしたら、被害者の遺族の方の心情はどうなるのか、と怒りを覚えたし、こんな怪しげな主張が真実を探る道とは到底思えなかった。後に述べるが、「冒涜している」、「遺族の気持ちを踏みにじっている」、「慟哭が聞こえないのか」などというのはこういう時に使う言葉であろう。
自由には自ずからなる規律が必要なのであり、表現の自由は、何でもあり、とは違う筈である。
誤解を受けない様に、先回りして言っておかねばならないが、だからと言って、今回の広島市長である秋葉氏を初めとする講演日時延期要請が容認できる、と言っているのでは決してない。
表現の自由を封殺してはならないのは言うまでもないけれど、いやしくも表現の自由を口にするのであれば自ずからなる規律が必要なのではないか、と言いたいのだ。
半世紀近く前に夢中で読んだ池田潔氏の「自由と規律」は今に至るも私の座右の書のひとつである。

こうした前提の上で私が強調したいのは今回の田母神氏の講演はことさらに表現の自由をあげつらう必要など少しもない、と言う事である。
氏の講演には敢て表現の自由を盾にして語らねばならないような怪しげな要素、危険な臭いは少しも無い。
それにもかかわらず、「被爆者の意識を冒涜している」、「遺族の気持ちを踏みにじっている」、「人々の慟哭が聞こえないのか」などなどの声が聞こえてくる。
どうして核兵器について語る事が、仮にその主張は核武装容認論であったとしても、被爆者の意識を冒涜している事になり、遺族の気持ちを踏みにじっている事に、人々の慟哭を聞かない事になるのか、私には全く理解できない。
真実、平和を希求するのならば、そのための方法について議論をつくすのは当然ではないか。
さらに、講演日時、8月6日をめぐる一連のこの騒動は例の論文「日本は侵略国家であったのか」を発表した田母神氏が自衛隊の航空幕僚長であった、という事情を思い起こさせる。
ご承知の様にあの論文は多くの人の知るところとなり、田母神氏は一気に時の人になってしまった訳だが、仮に田母神氏が航空幕僚長でなかったら、これほどの注目を集めたであろうか。
論文を書いた田母神氏は航空幕僚長であったために氏はその職を解かれ(事実上解任され)、氏にとってははなはだ気の毒な事であったのだが、そのおかげで世間は事の重大さに目覚めた、とも言える。
つまり、氏が航空幕僚長であったおかげで世論は沸騰し、講演は8月6日に開催されるからこそ、より世間の耳目を集める事になった、と言えるのではないか。
ここまで言えばこの講演が8月6日に行われる是非については答えたも同然であろう。
この日ほど真の日本のあり方について、真の平和について語るに相応しい日はないではないか。
何度でも言う、講演日時は8月6日であればこそ、より意義があるのである。

被爆者の意識を冒涜する、遺族の気持ちを踏みにじる、と言うのなら、私は原爆死没者慰霊碑の石室前面の碑文、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」にイチャモンをつけるであろう。良く知られた話だから今さら紹介するまでもないと思うが、過ちを犯したのは誰なのか?
原爆を落と「されて」おいて一体何を反省するのか?
落とした、落とされた、ではない、だの、主語は世界市民だ、など、自己欺瞞もはなはだしい。
パール判事ならずとも疑問に思い、激高するのは当然だろう。
これほど、被爆者を冒涜した言葉はない。

思わず、講演内容以外の事に筆を割き過ぎたかも知れない。
しかし、実は講演自体よりもこれを取り巻く諸般の情勢の方が問題なのであって、講演の内容自体については語る事はそれほど多くない。
何故と言って、講演の内容はともかくとして、それに反対する意見があまりに貧弱だからである。
田母神氏の核武装論に対して核放棄論が傾聴に値するものであれば、講演を土台に日本の将来、平和について多いに論を戦わせれば講演、論争にも大いに意義があり結構なのだが、憲法九条護持、核放棄を唱える側から聞こえてくるのは何時もながらの情緒論、感情論、意味のない悲鳴ばかりで、まともな反対意見などまるで聞こえてこない。
『平和、平和・・』と唱えていれば平和が向こうからやって来る訳ではないし、『核兵器廃絶』と言えば、核兵器が自然と雲散霧消する訳では決してないのだ。
戦争反対、平和愛好は当然の話で大変結構だが、では具体的にどうやって国を守るのか、どうしたら平和な世の中を作れるのか、と言った根源的な問いに対する具体的な方策、実効性のある議論は護憲論者、軍備不要論者からはまるで聞いた事がない。
これでは論争にすらならない。
空虚な戦争反対がいかに簡単か。その良い証拠に、人気取りが命の芸能人が再軍備の必要性を唱えた、と言う話はついぞ聞かない。彼等には具体的方策など必要ない。無責任に『平和、平和』と言っていれば人気は上がり、平和愛好家、良い人になれるからである。
護憲論者、核兵器廃絶論者は二言目には「唯一の被爆国である日本が世界に核廃絶を訴えねばならない」と言うが、唯一の被爆国である事と核廃絶を訴えねばならない事には何ら論理的必然性は無い。
唯一の被爆国であるならば、どこよりも真剣に核兵器について考えてみるべきだろう。
オバマのプラハ宣言を随分称揚していたようだが、あれはアメリカの国情が変化したため、たまたまそちら側に向いた様に見えるだけで、アメリカは実はちっとも変わってなどいないのである。もっとも、(田母神氏も指摘していたように)、一国の代表者が国益に沿った政策を語るのは極めて当たり前の事で、人類愛に燃えて自国の権益を無視した発言をする人道的な代表者など、どこにもいないのである。
もしも、そんな人間がいたら(日本ではどうだか知らないが)、まず自国民から非難の嵐であろう。

私が再軍備の必要性を主張している事を知ったある主婦は私にこう言った。
そうは言っても、あなたも可愛いあなたの子や孫が戦争で死ぬのはいやでしょう』
この主婦が何を誤解しているかは言うまでもないであろう。可愛い子や孫、家族が、あるいは恋人が戦争の惨禍を被らないために再軍備が必要なのである。しかし、無垢ではあるが、こうした無知とも言える誤解は世間に大きくはびこっている。
簡単な話である。『警察がなくなれば泥棒がいなくなりますか?』と問えば良い。事情はまるで逆であろう。
あるいは、『あなたは夜、家に鍵をかけずに休みますか?』と言えば良い。三歳の童子にもわかる理屈ではないか。
事のついでに言えば、あの「ハト派」、「タカ派」という呼び方も誤解を与える一因になっているのではないか。これではまるで彼等が平和希求派でこちら側は好戦論者である。

失礼ながら田母神氏の講演はお世辞にも上手、とは申し上げかねた。
しかし、それは氏のキズではない。氏は航空幕僚長であった人であり講釈士ではないのである。
講演の中身はよほど伝えたい事、語りたい事が盛りだくさんだったのであろう、前フリ無し、中休み無し、最後の余韻無し、といった様子、でおよそ2時間あまり、まさに息継ぐ暇もない、と言った調子で、幸いにして、その主張される骨子は、氏が講演の中でもふれていた様に、「チャンネル桜」、「ウイル」、「正論」などで見聞きしたものが多かったので、何とかついて行く事ができたが、下手をすると消化不良を起こしかねないくらい中身の濃いものであった。
氏の日本を憂うる情熱は十二分に伝わってきた。それだけで良いであろう。
ひとつだけ言わせていただければ、氏が常々口にされる『私は日本が良い国であったと言って罷免された』という口上は違うのではないか、と思う。上記の言葉はジョークとして聞けばともかく、レトリック上の詭弁とでも言うべき言い回しであって、氏が罷免されたのは決して日本が良い国であった、と言った故ではなく、氏が罷免されたのは政府見解とされている村山談話に抵触したためである。
私にはこの方がよほど問題だ、と思う。
しかして、その村山談話なるものは具体的歴史事実に一切言及せず抽象的表現に終止しており、そのような粗雑な談話と論文を同列に論ずる事自体、田母神氏に失礼であろう。聞けば、記者に談話の中にある「誤った国策」とは具体的に何を指すのか、と問われて返答に窮した、と言うではないか。
何をか況んや、である。
氏のもうひとつの常套句、『危険人物の田母神です』という自己紹介は愉快で良い、と思う。
危険人物だけが世の中を変え、歴史を作っていくのだから。

願わくば、氏は講演など上手にならなくても構わない。どうか、日本を再生させるためのご努力をこれからも精一杯続けていただきたい、と思う。
及ばずながら私たちもその一助になるための努力は惜しまないし、微力ながら応援を続けて行きたいと思っている。
(広島)



”田母神講演”本当にお疲れ様でした。
本当にすばらしい講演で大成功でしたね!
少し仕事を早めにあがらせてもらって間近の席でしっかり講演を聞かせてもらいました。
企画運営された皆さんの熱意の甲斐あって
混乱も無く講演をやり遂げられた皆さまに心よりお礼申し上げます。

妻も普段から同じような事を私や討論番組で聞いてたけど
実際に目の前で聞く、国防の最前線を担っておられたトップの方の講演は
これまでとは一味も二味も違って、討論番組ではありがちな感情的になることもなく
冷静な中にこの国を大切に思う”熱意”がほとばしり
芸人顔負けの”ユーモア”も交えた2時間はとても短く感じられ
もっと話を聞きたかったと言ってました。

私自身も初めて聞く内容も多々あり
中でもサッチャーの言葉は広島人としてとても印象に残りました。

”核のない世の中よりも戦争の無い世の中の方が良い”
”広島、長崎に原爆が落とされたのは日本が核を持っていなかったからだ”

原爆の惨状を世に広めていくことはこれからも永遠に絶対必要だと思いますが
中韓と同様に被害者意識を前面に押し出すだけの”反戦平和”では
核保有国指導者、核保有国国民には大きな説得力を持たないことは
今までも感じてましたが、今回の講演で改めてはっきりと認識できました。

では戦争の無い世に中にするにはどうするか
どんな選択肢があるか、田母神氏はこう思うという
と言うのが今回の講演の趣旨であり
私をはじめ多くの参加者にも非常に説得力を持つ
絶対に議論しなければならない重要な問題提起となり
改めて評価されるべき意義ある企画であったと強く感じています。
(広島 男性)



先日、長崎の式典にも参加しました。戦争・原爆・被爆地としての在り方など、私なりに感じることができました。過去の戦争から学び、事実の解明や真相をもとに、今後の平和を考えること、とても大事だと思います。
ですが私は女性であり、ヨギなので、今後も戦争や侵略があることを前提とした思考がなかなか巡りません。何にせよ、侵略や戦争、これほど人間としての大きな過ちはないと思っています。
自分だけでなく、平和に暮らしたい気持ちは皆同じです。宇宙の神秘性に思いを馳せ、愛情や思いやりの心が、国・人種に関わりなく備わっていると信じています。平和を保つ力が備わっていると信じ、今日も心の平安と平和を思い合掌をしています。
(広島 女性)



日本会議広島のみなさま

立秋とは名ばかりの暑さ厳しき折、果断なる草莽活動を続けられることを心より尊敬申し上げます。

こんにちは。 私は○○と申します。広島在住の者です。
八月六日の田母神俊雄氏の講演会に参加致しました。
充実した内容の講演で、無事講演を成立させた日本会議広島の方々に感謝申し上げます。

さて、今回の講演に当たっては、誠に遺憾ながら、 反核団体の抗議や、それを見た広島市長の日程変更要請、 そしてフタバ図書の物理的言論封鎖に至り、ついには日本会議広島が 中國新聞紙上へ意見広告を掲載しなければならないという騒動にまで 発展してしまいました。
私はこの一連の事件的騒動を「扇動」した疑いを、中國新聞に対して抱いております。

以下、一連の流れと根拠をご報告させて頂きます。
かねてより田母神氏へのバッシングを繰り返していた中國新聞は 田母神氏の来広講演を「一ヶ月以上も前」の六月下旬に社会面で大々的に告知したが二件の不快感を示す読者投稿と、反核団体の連名での抗議文送付、 秋葉市長の日程変更要請を経て、フタバ図書の物理的言論封鎖(チケット販売中止) という事件にまで発展した。

何ゆえフタバの行動を「事件」と規定するか。
「集会の自由」と「聴く権利」を侵害し、市民感情に配慮という文言で 「広島市民である私」の感情を害し、 チケットの販売網の減少と中國新聞紙上への意見広告掲載のため主催者に 不利益を生じせしめたためである。

これは中國新聞が「核武装論者である田母神」の講演を、間接的バッシングが 次次と起こるに充分な期間である「一ヶ月以上も前に」さりげなく記事にした 「開催を阻止しようとする一連の勢力の一部」だからである。
『マハティールが8月5日に市内で講演を持つ』という記事が出たのは 7月17日朝刊の3面。一国のトップを務めたマハティールですら三週間を切っている。

もし仮に二週間前に予告記事が出ていれば、広島市長の変更要請はぎりぎり間に合ったかどうかというタイミングだったろう。
少なくともフタバの言論弾圧や、街頭でのいわゆる「来るなのデモ」や、 主催者が多額のお金を使って意見広告を掲載する事態はなかったはずだ。

中國新聞は何故一ヶ月以上も前に、「前」航空幕僚長としか肩書きのない方の講演を、わざわざ「核武装論者として知られる」との紹介と共に、殊更大々的に取り上げる必要があったのか。
八月六日という日に、核兵器の肯定的な話をすること自体への懸念表明だとすれば、まったく「現実」を見ていない。
「現実」は、二度と広島に原爆を落とされないよう、あらゆる方策を講じることである。
チベットやウイグルは決して他人事ではない。
中国から見れば、日本人も所詮少数民族に過ぎない。
中国は少数民族弾圧に手段を選ばない。
人道無視をし、反日教育を徹底する国が、核兵器を持っているのである。
これが「現実」である。

以上のこと(扇動行為)は、翌八月七日の朝刊が証明している。
予告であれほど大々的に取り上げていたから、さぞ講演実施の記事はでかいのだろうと思っていたが、驚くほどに小さな記事であった。
これが、従来の中國新聞の姿である。
反核左翼の中國新聞は田母神氏の講演について、「小さな事後記事」として報じるのがこれまでのやり方のはずだ。
あの「講演一ヶ月以上前の予告記事」と、田母神氏を「核武装論者」の一面だけで捉え、かつ印象操作し、間接的に糾弾していく手法は、反核者を煽り立てるプロパガンダに他ならない。
私はこれらの点について、「市民感情にまったく配慮していない」フタバ図書と中國新聞に対し、断固抗議すべきだと思い、今回の報告に先駆けて同種の抗議文を送付致しました。(本当は公開質問状のような形のほうが良いのかもしれませんが)。

以上、報告を終わります。

本日はお忙しい中、乱文乱筆のお目通り、誠に感謝致します。
今後の日本会議広島の活躍を、広島市民として、心より祈念致します。



本日の田母神元航空幕僚長の講演会 大変 興味深く拝聴致しました。
私は30代後半のアラフォー世代ですが、祖父の弟が神風特別攻撃隊で沖縄で戦死しており、その遺書を書籍で幼少のときからお盆やお正月に曾祖母の元で読んで育ちました。
幼い私に何かある度に「これ食え」ばかり言う温和な曾祖母が遺書では「母上」と、何でもおもちゃを買ってくれる無口な祖父が「兄上」と書かれたその遺書を読むと、子供ながらに日本語の美しさがすっと心に入ってきて、目の前にいる2人との妙なギャップ、「ひいおばあちゃんが「母上」、おじいちゃんが「兄上」と呼ばれていた時代はどんな時代?これを書いたおじいちゃんの弟はなんで死んだの?」という疑問がずっとありました。私が、関心を持った原点です。
また、当時は、私は東京近郊に住んでいましたが、戦後30年は過ぎていたのでしょうが、上野動物園にいけば、必ず、義足をつけた戦災負傷兵らしき方達がアコーディオンを弾きながら、通行人へ寄付を求めていた姿が、子供ながら「どうしてか?」と思ったことをよく覚えています。

「何故、祖父の弟を含めて特攻隊という形で死ななければならなかったのか?」を知りたくて、機をみては靖国神社や遊就館、鹿児島の知覧、江田島の第一術科学校へ行き、多くの書籍も読みました。
其の過程で特攻隊だけではなく、大東亜戦争が起こった時代背景、世界情勢、戦後史等など、多くを学びました。また、その学びの過程で、一部(大半?)の新聞・マスコミ報道、一部の書籍等の主張内容に違和感を覚えることが多く、何かすっきりしない思いをずっと抱えていました。
更には、少しずれますが、海外に行く機会があった際、私の知る多くの日本人が、日本の歴史と文化を知らない事、多少、知っていても誇りを持って紹介できない事、戦争の話題になったときに答えを避ける等の状況に接するにつけ、「一体、現在の日本人と、国のために死んでいった人たちとで何が違うのか?」心に悶々とするものがありました。

そんな中で、今回、田母神講演会を拝聴して、自分の無知を改めて知ると同時に、大きな胸のつっかえが、大分、すっきりしました。
核保有等については、まだまだ無知なので、その是非については私自信の考えは定まりません。
ただ、すばらしい文化を育んできた日本や自分が日本人であること誇りを持てる国にしていくこと、それを次世代につなげて行くという考え方、自分の国は自分達で守るということ、その主張の大筋については大いに賛同します。

最後の司会の方のお話で、チケット申し込みが1枚が多かったとありましたが、こういったことを日常生活の中で話題にすること自体、避ける風潮があるのではないか、と思いました。
私自身、イデオロギーの話題は、自分からすることを何となく避けてしまいます。ただ、私が職場で、田母神講演会を講聴に行くために定時退社することを話すと、意外と20~40代の同僚が「行きたかった」というものが何人もいました。
”くびになった航空幕僚長が何を主張するか”興味半分ではありますが、皆、関心があるのだと思います。

考えを定めることは個々ですることですが、考える機会を増やす、気づきのきっかけをつくる、問題提起をするという観点から、是非、また、いろいろな論者での講演会等を企画してください。

取り急ぎ、講演会拝聴の感想まで。



昨日(8/6)は大変有意義な時間を過ごさせていただきました。
ありがとうございました。

私は、○○で、音楽教室を開いている傍ら、○○で音楽も指導しています。

10年ほど前、卒業式が近いので、授業中「国歌・君が代」を指導したところ、
帰り道、日教組の先生方に待ち伏せされたこともあります。

「地域を愛する子供を育てよう」といいながら、一方では、 日本という国家を「悪」と教え込む教育。

日本という国の中に、自分たちが生まれ育ててもらっている地域があるのに・・・。
矛盾しているとしか考えようがありません。
このような教育で、子供が良くなるわけがありませんし、 刹那的な人間しか生まれないと思います。

私たちの故郷日本国がこれ以上、おかしな方向性を持たないためにも、 これからも頑張ってください。
私も出来ることから頑張ります。

また、講演等聞きに行かせてもらえればと思います。
ありがとうございました。



入場者が1300人とは・・・凄い反響でしたね! 私たちも17:00過ぎに会場へ入ったのですが、すでに正面の席はうまっていましたが、右寄りの前から2列目を確保出来ました。HPにUPされている写真に小さいですがちょうど中央あたりに三人写っていました。友人夫妻に教えてあげると、喜んでいました。今、壁紙に使用しております。

田母神閣下は素晴らしいですね!中身の濃い2時間、感動しました。
また、スタッフの方の御苦労にも頭が下がる思いです。大変感謝しております。当日は寄付出来ませんでしたが、後ほど心ばかりですがお礼をさせていただきます。

当日、閣下の本と「これだけは知っておきたい大東亜戦争」を買わせていただいたのですが、これにも感動しました。また、日本会議のスタッフの方々の日本国を愛する活動に大拍手を贈りたいと思います。

猛暑が続きますが、どうかお体をご自愛され頑張って下さい!
大変ありがとうございました。



はじめまして。安佐南区在住の○○と申します。先日、田母神さんの講演会に行ってきました。
本当に溜飲の下がる思いの講演会でした。10年ほど前は私も含め右よりの人たちはキチガイ右翼扱いされたものですが、今回「似た考えの人が今はこんなにいる」と大変心強く思いました。
妨害が多くてご苦労されたことと思います。
講演会は妻と一緒に出かけたのですが、帰宅途中、妻に 「我々と同じ考えを持っている人たちは日本の全人口の何%ぐらいだろう?」と聞いてみました。
妻は「1%ぐらい」私は「10%以下だろう」という意見でした。
戦後教育に毒されている人がまだ大半で我々はまだ少数派だと思います。

講演会の最中に何度も「賛同の拍手」が起きましたね。
あれは真実を既に知っているから拍手が起きたのだと思います。
ですからこの前の講演会は既に真実を知っている人たちの結束を強めるためには役立ったかもしれませんが日本の真実を知る人を増やしてはいないでしょう。

明治維新は一部の人たちが突っ走れば実現できましたが、今は民主主義(アメリカ謹製)の時代なのでどうしても真実を知らない人たちを説得して私たちが多数派にならないと何も変えられません。

私の職場には左巻きの人が多くて閉口するのですが私の影響で歴史の真実に目覚めて右向きになってきた人が2人ほどいます。その人たちを説得するときには歴史の真実の話はしましたが、靖国神社や天皇陛下の話は一切しませんでした。
この話を始めると「キチガイ右翼」のレッテル貼られて話しを聞いてもらえなくなるからです。


提案ですが日本会議広島のホームページの「英霊顕彰・慰霊」や「天皇陛下と広島」のページはトップページではない所に掲載してはどうでしょう。
戦後教育に染まった人たちが日本会議広島のホームページを見ると多分トップページを見ただけで逃げていくと思うのです。私たちは断じてキチガイ右翼ではありませんが今の普通の日本人は私たちのことを、戦前の軍国主義を復活しようとしているやつらとしか見ないのです。
日本を変えるには、どうしても目の覚めていない人たちにこのホームページは読んでもらう必要があります。
目の覚めていない人のレベルに私たちは降りていく必要があるのではないでしょうか?

長文失礼しました。