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「靖國のこえに耳を澄ませて」打越 和子

本日はお招き戴きまして有り難うございます。打越和子と申します。二年前にお招きを戴きながら来ることが出来ず、ようやくお約束を果たすことが出来てほっとしております。先ほど、ご社殿で英霊感謝祭に参列させて頂きました。太鼓の音も厳かなお祭りに参列させて戴いて本当に感謝しております。
八月十五日といいますと、私は東京に住んでおりますので靖国神社に参りますが、なぜか晴れて暑い日が多いんですね。蝉時雨がいっぱいで、境内の玉砂利に立ち尽くしておりますと、大東亜戦争を戦った多くの日本人の魂というようなものが、ひしひしと迫って来るような感じがいたします。私は戦没学徒について取材をして、それを文章にした経験がありますので、その方お一人お一人のお顔だとか、言葉やいろいろなエピソードがよみがえって参ります。
私は昭和三十九年の生まれで、私の祖父は出征しておりません。親戚の中にも戦死者という者はないわけですけれども、その私がどうして戦没学徒について調べてみようか、取材してみようかと思ったのかについてまず初めにお話させて戴きたいと思います。皆さん、ここにお集まりの方は、若い方もいらっしゃいますが、ほとんど戦争を経験していらっしゃる先輩方ばかりですので、そういう方にとっては当たり前のことかもしれないんですけれども、経験のない私共の世代が、どういう風にして靖国というものを考え始めたのかということについてお話したいと思います。
私が最初に戦没学徒について目を開く契機を与えてくれたのは、戦没学徒が残した和歌、短歌だったんですね。それは大学時代に読んだ本の中にあったのですけれども、こういうお歌でした。

みくにいまたゞならぬときつはものと召され出でゆく何ぞうれしき
吾死なば後につゞきてとこしへに御國護れよ四方の人々


これは私の故郷の熊本県出身の、和多山儀平さんという方が出征を前に詠まれた歌ですが「召され出でゆく何ぞうれしき」という言葉。そして「後につゞきてとこしへに御國護れよ四方の人々」というこの訴えですね。私達の世代は出征していった人達は戦争には嫌々、涙ながらに引っ張られていったと教えられてきました。みんながそうだったのだろうと。けれども、この方は、御國がただならぬときに召されていくことを「何ぞうれしき」と。そして私が死んだならば、この国を永遠に護りついで欲しいと後生に願いをかけておられるわけです。その後生というのは、他ならぬ私ではないのか。そう思った時、私はそういう人達に願いをかけられている存在だということに気が付いたんです。それが最初でした。それから〝みくにがただならぬとき〟とは一体どういう時だったのか、という当時の国際情勢を学びました。それからその戦争の真相が、なぜ戦後世代に伝わって来なかったのか、戦後の占領政策についても学びを深めていったわけです。
それから数年が経った平成五年になって、細川首相が「あの戦争は間違った戦争であった。侵略戦争であったと私は思っている。」と発言しました。その年は学徒出陣五十周年の年でした。ちょうどその時に〝月光の夏〟という映画が公開になりました。その映画は特攻隊の学徒の方を主人公とした映画でしたが、当時の特攻隊の方々に聴くと「あれはちょっと事実とは違う」という面が数箇所あるようです。私はその当時は、そのことはよく判りませんでしたが、試写会を観に行って、強烈に私の心に疑問として残ったものがあったんですね。その映画は最後、飛行機の中で血だらけになりながら突っ込んでいく若者の映像で終わるんです。それはものすごくショックというか、自分が死ぬという恐怖を乗り越えていった人達の気持ちは一体どういう気持ちだったのか、その重さというものがすごく迫ってきたのです。何だろう。なぜああいう事が出来たのかということもありますし、一体どういうお気持ちだったのだろうというのが、頭から離れなかったんです。そしてその日の夜ずっとそれを考えていました。眠れなかったんですけれども、眠らなければいけないと、電気を暗くして横になった時に何かこう、大勢の足音のようなものが、ざざざっざざざっと聞こえてきたんですね。「これ、何だろうな。」と思って、そしたらそれがだんだん大きくなってきて、私の部屋には靖国神社のカレンダーを掛けていたんですが、そこにバシッバシッと青い光がひかったんです。ああっ!と思って、そしたらその足音がさぁーっと小さくなって消えていったんです。私はこういう体験は後にも先にもこれ一回きりです。
これは私に何か魂が訴えに来たと思いました。細川首相の侵略戦争発言や、特攻隊の方々のことばかりずっと考えている時にそういう不思議なことが起こったので、これは私に英霊の魂が訴えに来たのだと思ったのです。
それから、やはり導かれるようにして、靖国神社で開かれていた学徒出陣五十周年特別展を企画した靖国神社の方々にインタヴューする機会を得ました。その時に靖国神社の神職さんの話を聴いて驚いたのは、実によく一人一人の方のことを克明に知っていらっしゃる。「~さんはですね。飛行機にのって~から行かれて、こういう歌を詠まれたんですよ。」ってすらすらとその短歌がでてくる。そして「~さんは恋人がいらっしゃいましてね。今~に住んでおられましてね。この前子供さんがいらっしゃって・・・」とかそういう一人一人の名前や歌やご家族の名前、その人が残した手紙の一節、そういうものがすらすらすらっと出てくるんですよ。それを身内のことのように懐かしくお話されるんですね。私はそれまでに戦没者を大切にしなければならないという気持ちはすでにもっていました。けれどもその一人一人の方について、じゃあどなたを知っているの? その方はどういうお言葉をのこされましたか? その方はどこに住んでいらっしゃって、どういう人だった? そういうことは全く知らなかった。慰霊というのは、その人達お一人お一人のことをもっとよく知ることではないだろうか。「英霊を大切にしなければいけない」という一つの概念に留まっていては、私達は本当に慰霊するということは出来ないのではないかな、と思わされました。それから学徒の方お一人お一人について、くわしく取材しようということを思い立ちまして、平成六~七年にかけて、私は月刊誌の『祖国と青年』に「散華のこころ」と題した連載を執筆しました。一人の方についてくわしく知るためには、やっぱりご遺族のお話を聴きたい。ですから、ご遺族と連絡が付いて私が会いに行ける方、それからその方を偲ぶよすがとなる遺品が多い方、というようなことを基準にして、一ヶ月に一人の方を選んで取材を始めました。その取材に当たっては自分の先入観を捨て、その方が本当にどういう方であったのかを知るように努めました。出征されてからのことだけではなくて、生まれた時から、こういうふうに育ってきて、こういう家族の下で、というようなことも知りたい。そして私は取材を通して思いましたのは、やっぱり魂というものは生きているという事なんですね。なくなってはないと思います。その方がきっと今の世の中に言いたいと思っていらっしゃることがあるのではないか?私の筆を通してその人が言いたいと思っておられる事を私は言いたい。私が言いたいことを、その人の口を通して言うなんていうことは絶対にしてはならないのであって、その人達が言いたい事を私が言いたい。そういう気持ちで、取材中は靖国神社にお参りに行きながら、どうかあなたの言いたい事を、私を通して伝えて下さいと願いました。それで一年半、十七人の方を取材しましたので、それをまとめて本にしたわけですけれども、その方の中から今日は二人の方のご遺文についてご紹介させて戴きます。
最初に高久健一さんという方ですね。この方は、秋田県の出身で、私は東京に住んでおりましたので東京近辺の方に取材することが多かったのですが、この方の場合は秋田まで行きました。弟さんがご健在ですし、甥ごさんも一生懸命慰霊に尽くしていらっしゃいます。遠く秋田まで行ったことが懐かしく思い起こされます。この方は南洋のウルシー湾上で神風特別攻撃隊の菊水部隊梓特攻隊の一員として散華していかれました。出征前に教員をされていたのですが、教員時代に次の文章を残していらっしゃいます。

私は生きている。生きる事は一つの行である。現在私にとってもっとも確実なことは生きているということである。そして他のすべての人々が生きている。人はその生に対してひたむきでなければならない。忠実でなければならない。人間は生きているということは絶対である。それは我々を厳粛にする。一人の人間が生きていた、生きて来た、そして生きているという事実と歴史の前に私達は頭を垂れなければならない。共に謙虚でありたいものだ。・・・・生が哲学上如何なる事になっているか私は知らない。然し私は生の事実を否定出来ないのである。生は伝統の中にある。人間の伝統、民族の伝統、学校の伝統等・・・然し生の偉大さは国へのつながりにあると言ってよい。生の発展ではなく継承にあるのだ。私達はその伝統の中に於いて如何に反逆してみてもそれは不可能である。内村鑑三が「俺が此の国に生を享けたのは偶然であり、俺の与り知る所ではない。」などと言っても彼の血の中には受け継がれた国の血潮がある。そしてそれを否むことは出来ない。人間の博愛などといっても、人間が伝統を否定し、歴史を無視して、世界人のモラルを確立することを願ったのは尊いことではあろうが合理主義の果敢な錯覚であり、没落であった。

この中で「生は伝統の中にある。」「生の偉大さは国へのつながりにあると言ってよい。生の発展ではなく継承にある。」と高久さんは書いていらっしゃいます。〝生きる〟ということ〝生きる価値〟というものは伝統の中に、伝統を受け継ぐことにあるのだということですね。この高久さんの最期の様子を、梓隊を見送った要務士官の方が、戦後になってご遺族に手紙で伝えられました。それが次の文書です。

其の晩、高久さん達は非常に朗らかで、又私たちと飲んでいたところ、何時の間にやら高久さんが日頃親しくしていられた福田大尉と二人で爆笑されながら外へ出て行く所でしたので僕は呆れてしまいました。何が可笑しいのか知らんが明朝征って帰らぬ人があんなに笑い崩れ乍ら出て行くなんてと思いましたので僕は高久さんを追いかけるように側に行って、〝何処へ行きますか〟とお聞きした所タオルを握った右の手を高く挙げて〝浮世の垢の落とし納めだ〟と云ったきり笑い続けて福田大尉と共に出て行きました。僕はあの時の高久さんの態度を見て、更に、あの底知れぬ偉さを見せつけられました。(中略)最後の未明の出撃の軍装を整えて飛行場に整列する前でした。〝オイ!皆んな有り金を全部持て〟と高久さんはあの大声で叫びましたので、福田さんや根尾さん達は〝貴様、晩六時までに敵艦に突入するものが金の必要なんかいらんではないか。馬鹿!〟と呆れ乍らこれまた大声でどなったところ、〝いや、それは違うぞ。地獄の釜も金次第だよ。なに三途の川を渡る時の船賃だよ。持った方が都合がよいぞ〟と高久さんが笑って言うんです。するとそれまで流石に緊張していた一同は〝ウム、ナール程それがよい。オーイ貴様達、有り金全部持て〟と言って大笑いしながら高久さんの案に賛成し、結局梓隊の全部が持ち合わせのお金は銘々が持って出撃しました。日頃冗談を言わぬあの高久さんが死の一歩前に直面しながら此の珍談を敢えてし、隊員をいやが上にも明朗にさせて征ったのでした。

特攻出撃というのは、悲壮な決意のもとに行かれるわけなんですけれども、この方が証言しておられるような、明朗さがあるんですね。高久さんだけではないです。他の方を私もいろいろと取材した時にも、この驚くような明るさ、というか朗らかさがあるんですね。戦後、特攻隊を語る時に、非常に暗く描くものが多い中で、いや、事実はもっと淡々としたものだった。もっと淡々と明るくみんな征ったんだ、と当時を知った方は言っていらっしゃいますが、この高久さんの最期を伝えたお手紙というのは、それをよく伝えている一つではないかなと思います。
それから、次に塚本太郎さんという方、この方は非常にお家が裕福だったこともあって、お父様がスタジオを経営されていたんですね。そのスタジオで当時としては珍しくレコードにこの、遺書と言うべきか、次の文章を入隊前に録音していかれたのです。この方は別に遺書はあるんですね。このレコードに残された文章は、誰に向けて言っていらっしゃるのかなあと私は考えましたけれども、すごく優しい言葉で語っていらっしゃるので、塚本さんは長男で、弟妹が下にいらっしゃったので、弟妹に向けて残したのかもしれない。それからこの方は近所の悪童たちから慕われたお兄さんだったので、近所の子供たちに向けてこれを残したのかもしれないなあと想像しておりますけれど、これをちょっと読んでみたいと思います。

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんな我儘なものを、よくもまあほんとうにありがとう。僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りに行ったね。あそこで転んだのは誰だったかしら。雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって ---- 然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵激攘せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの 血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して 健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃釼を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。みんなさようなら! 元気で征きます。

この塚本さんの声は靖国神社に新しく造られました遊就館で聴くことができるようになっております。私も聴きましたけれども非常に青年らしい、ちょっと早口の爽やかな語り口ですね。この中にも「然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならない」「おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。」というように、高久さんが言っていた伝統、あるいは縦の歴史の繋がり、日本人であるということ、それに自分は命を賭けても悔いはないという事が明言されています。この自分の命を捧げても悔いはない「日本」というものは一体何か。それはこの時代に於いては説明するまでもないことだったかもしれないけれども、戦後においては、個人の命が一番だと言われてまいりました。けれども死しても護るべきものがあるということをこの方々の遺書は伝えているわけです。
この塚本さんが陣中日誌を残していらっしゃるんですが、その日誌の中の一部分をまた次に掲げました。

俺ハ立派ナ日本人ニナレレバ満足ダ 忠義一途ノ人間ニサヘナレレバ ソレガ人ニ知ラレズニ消エヤウト誤解ノ中ニ葬ラレヤウト俺ハ満足ダ 天上デ神様ガ褒メテ下サルダラウ「オ前ハ駄目ナ奴ダナ無能者ダナ、デモヨクヤツタ努力ハ認ル ヨク苦シンダアハハヽヽヽヽ馬鹿ナ奴」サウ言ツテニツコリ笑フダラウ サウナリタイ 俺ノ知ラナイオ爺モ曾祖父モ喜デクレルダラウ ナントカシテサウナリタイ

塚本さんは長男ですので回天の特攻隊に志願された時に一度は却下されるんですね。長男だという理由で。しかし、それを血書嘆願して再び志願されて回天に乗り込まれました。この塚本さんは「俺の待っていた兵器はこの兵器だ。絶対に俺はこれに乗る」ということを繰り返し日誌に書いていらっしゃいます。嫌々ながら特攻に行ったということが言われますが、私が取材した方はそうではない。また「志願させられた」という言い方もされますが、じゃあ何かが怖くて志願させられたというのならば、塚本さんは一度志願して長男であるからと却下されたのですから、「しめしめ」とそれで終わればいい。けれどそうではなくて、長男であるからと却下されたのは悔しい。絶対に俺は此れに乗ると言って、また血書嘆願して乗る。そういう方が多くいらっしゃったその事実というものを見つめなければ、その方に対して失礼だと思います。
ではこういう方々は戦局に対して盲目だったのかというとそうではない。学徒というのは非常に優秀なエリートでしたので、国際情勢を見る眼というものは持っておられました。作家の山岡荘八さんは当時、従軍記者として特攻基地に取材しておられましたが「もし戦いに負けたら、どうなるのか?この戦は勝てると思っているのか?」とある特攻隊員に聞いています。それは西田高光さんという方でしたが、その西田さんは『学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどと思ってはいません。しかし負けたとしても、その後はどうなるのです。‥‥おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに‥‥』と応えています。自分たちがどう戦うか、どう生きたかということがその後に生きる日本人の誇りに係わっている。負けたとしてもですね、負けたら余計に日本人は、日本人の誇りというものを頼りに立ち上がらなければならない。その時の為にも自分は行くといわれたんですね。
それから、負ける戦いであるならば自分は命を惜しんで、戦いが終わるまで生き永らえようと思うような人々ではなかったんですね。私達はあの戦争がいつ終わったかを知っているので、例えば八月の十日とか十二日、その辺りで亡くなった方に対して「もう少しで終戦だったのに、可哀相に‥‥。」などと言います。特攻だなんて馬鹿なことを、もうちょっと待ってれば良かったのに、なんてことを言いますけれども、その当時を生きた人々にとっては終戦が何時だなんていうことはわかりません。その後平和に復興するなんていうことも、後世にとっては当たり前の歴史の流れであっても、当時を生きた人々は敗戦になれば、占領されて悲惨な状態になると思っていた。当然です。それに、もし国が負けそうならば、それを覆して勝たなければならないと思うのが正常ですね。負けそうな戦いだから命を惜しんで自分は戦わないというのではなくて、国が危うい、もう負けそうであるからこそ、その戦局を有利に覆す為に自分の命を懸ける、というその気持ち、それは国民としての自然な感情だと私は思います。それを戦後は見失ってしまっているのではないか?学徒というのは戦局を見通す眼も持っているし、冷静に自分を見詰める眼も持っていたし、でもだからこそこの戦いに命を懸けたという事、それがよく解りました。
戦没者を「慰霊する」という時、例えば首相が靖国神社に参拝するという時によく聞く言葉に「犠牲者」という言葉があります。「犠牲者」となった方々に対してお詫びの言葉、例えば「二度と繰り返しません」という言葉を述べるのが慰霊ということになっている。「あなた方は犠牲になってかわいそうでしたね。」というようなニュアンスですね。でも果たしてそれは、戦いに散っていかれた方々に対する言葉として相応しいのかどうか。「騙されて、駆り出されて嫌々ながら戦争に行って、そして不本意な死を遂げてかわいそうでしたね。そういう戦争を二度と起こさないように致します。」これが戦後ずっと言われてきた慰霊の心というものです。だけれども、如何にもそれは、決意して戦地に行かれた方々に対して失礼ではないか。如何にも自分達の方が偉そうに、「私達は戦争の愚かさを知っている。あなた達は知らなかった。ですから今後はそういう事がないように頑張ります。」というのは慰霊の心には程遠い。戦没学徒の遺書や最期の様子、そういうものを知れば知るほど、あぁ、私には出来ない、なんて立派な人達なんだろう、ということを思わされるわけです。そうしますと、そういうかわいそうでしたなんていう言葉は私は出てこないですね。なんと立派だったのか。その方々への尊敬と感謝と、そしてまたその方々の決意に対して、私たちも応えるという決意ですね。その決意がなければ慰霊という事は出来ない。ですから、神前に立つということ、参拝するということは自分の決意なくして参拝出来ない。自分の生き方が問われるものなのだということが、忘れ去られているのではないかと思います。
そのことを誰よりもお感じになっていらっしゃったのは昭和天皇でいらっしゃったと思います。その昭和天皇が、この戦争の原因をきちんと後世に残しておかなければならないということで、側近を集めて戦後お話をされました。その記録が今までも何処かに残っているのではないかと言われていますけれども、公にはなっておりませんね。ただ、その時の側近の一人としてお話を聞いていた木下道雄さんが、そのメモを残していらっしゃいます。その一部をここに紹介しておりますけれども、ちょっと読んでみます。

戦争の原因
一、 列強が人種問題によりて日本の発展を阻止したこと(人種問題によらぬ列国相互の競争はさほど国民的憤激を巻き起こすものではない)なぜ日本人種を嫌ったか
(イ) 白色人種の有色人種に対する優越感
(ロ) 日本人の独善性
(ハ) 日本人の教養の不足
(ニ) 日本人の宗教の異なること
(木下道雄『側近日誌』)


私達はあの戦争が人種問題によっていたということは、全く忘れてしまっていますけれども、日本人の憤激というもの、白色人種がアジアに対して侵略の限りを尽くしてきたこと、またアメリカによる排日移民法、そういうことに対する憤激というものがあったわけですね。先ほど塚本太郎さんが、レコードの録音の中で最後に『大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。』と書いていらっしゃるのはつまり、アジアの民が希望の瞳で招いているということです。
「日本人の独善性」、「日本人の教養の不足」ということ。これは非常に日本人が反省しなければならないことだと思います。戦前が全て悪くて、戦後が良かったというのも間違いだけれども、戦前が全て良くて、戦後が間違っているというのも違いますね。やはり、戦前において反省しなければならないことはたくさんある。「日本人の独善性」「日本人の教養の不足」--- 学徒の方はこういうことも当時、肌身に感じていたと思います。そういう日本人のある意味での欠陥というものも、戦争の原因となったかもしれない。けれども、であったら自分たちがそれを克服して本来の日本人はこういうものだと歴史に残したいという気持ちで、自分の命を懸けてそれを示したいと思っておられたのではないか、と拝察しています。
次に、これは昭和天皇のお言葉として『本庄繁日記』に残っているものですけれども、昭和八年の段階で、昭和天皇はこういうふうに言われました。

国際関係を円滑ならしむる為め、互に往来を繁くする事も必要と思はるヽが、前に米国より帰来せし樺山の話に、英国の如きは米国に英国の文化其他実相を知らしむべき宣伝機関を設け、米国民に対して英国の事を知らんろするものは其宣伝所に至れば、何事にても判る如く成れりと云ふ。朕も亦、日本も此種帝国の精神文明の真相を他国民に知らしむべき機関を、米国、英国、仏国等の主要都市に設置するを可なりと想ひ、広田外相にも語りたる次第なり
(『本庄繁日記』)


これはどういう事かと言いますと、陛下ご自身は、日本人の精神文明というものの素晴らしさは当然ご存知でいらっしゃいます。日本人の精神文明は素晴らしいけれども、欧米とは違いますね。違うから理解され難い。だから誤解を生じやすいので、その日本の精神文明というものはかくあるものだということを、宣伝する機関を欧米に造るべきだ。そうすれば日本人への誤解、偏見というものが解けて、戦争という最悪な事態に至らなくて済むのではないか、とそういうお考えだったわけですね。日米戦争が始まらんとする時、これをどうにかして回避したいと思われた昭和天皇は新渡戸稲造を呼ばれて、あなたはアメリカに親しい人もたくさんいるから、アメリカに行って講演してくれ、そして日本の真意というものを伝えてくれ、とおっしゃっています。陛下はとにかく日本なるもの、日本の実相というものを世界に誤解なく知らしめなければならない、そういうふうにお考えだったわけですね。
先ほどの『側近日誌』の「戦争の原因」というものをもう一度見てみましょう。これらのことは果たして、今解決されているだろうか?
白色人種の有色人種に対する優越感というものは全く無くなっただろうか?無くなっていないと思いますね。それから日本人の独善性や教養の不足というものは克服されただろうか? そして日本人は自らの宗教心について、世界に対して語るべき言葉を持つことが出来ただろうか? この(イ)(ロ)(ハ)(ニ)に示されたことが今、克服されたかというと、克服されていないのではないか? ですから、あの戦争を反省するとよく言われますけれども、本当に日本人は戦争を反省し、そしてその戦争を起こさないようにするために努力しているかというと、全くしていないのではないかとさえ思われるわけですね。まずその原因というものを見詰めていませんから。  そして、この昭和天皇のお考えというものは当然、今の陛下も継いでいらっしゃると思います。戦没者に対するお気持ちは今の陛下も非常に深いものがあられ、私も陛下がご即位十年を迎えられた時に、陛下がお詠みになった御製や記者会見のお言葉を全部読み返しましたけれども、毎年毎年、戦争のことに触れられないときはありません。陛下は、昭和八年のお生まれですので、疎開されたりはしていますけれども、戦争の直接的な体験をお持ちではない。けれども、繰り返し繰り返し、遺族に対する言葉や、英霊のことについてお言葉を述べられている。
一つご紹介しておきたいことがあります。今年本当は、陛下としては南洋諸島に慰霊の旅に行かれたかった。それが中止になったということが昨年、産経新聞に出ましたけれども、漏れ伝わる所によりますと、陛下はおそらくご即位の直後から南洋諸島に慰霊に行きたい、慰霊碑に詣でたい、そしてそこには日本兵と現地の人との間に生まれた子供がいるので、その日本人の血を分けた人々と会いたい。そのことを繰り返し言っていらっしゃるそうです。早く行きたい! だけれども情勢が整わない、向こうの受け入れ態勢が整わない、色々な事があってまだ実現していない。平成十六年になっても、今年という筈だったのに行かれませんでしたね。何時まで待ったらいいのか。私は年をとって行けなくなるのではないか、ということさえも言っておられると。そこまで痛切に慰霊についてお考えになっているのです。遠い南洋諸島にまでも行きたいとおっしゃっている。靖国神社は皇居のすぐ側です。行きたいという強いお気持ちを持っていらっしゃると思います。南洋諸島まで行きたいと思っていらっしゃる陛下が、なんで靖国神社に行きたいと思っておられないことがあるでしょうか?けれどそういうことを陛下が思っていらっしゃることは言えませんし、公表もできません。この頃は、陛下に対してまるで陛下がそういうお気持ちを持っていらっしゃらないかのような感じで、「陛下、どうか靖国神社に参拝して下さい。」などと軽々しく言う動きがありますが、私はそういうことを言うのは、ちょっと違うのではないかと思います。行きたいと思っていらっしゃるのは山々だ。どんなに強いお気持ちでそれを願っていらっしゃるか。それが行けないということに対する、陛下の悔しさをこそ、拝察しなくてはならない。その行けないということは、国民の責任であって、国民がその状況を整えられないことに対する、自分達の責任を問うべきであると思います。先程、宮司様も昭和天皇の御製をご紹介になりました。

やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

これは昭和六十三年に「全国戦没者追悼式」と題して詠まれたお歌です。そして、「八月十五日」と題されたこういうお歌もあります。

この年のこの日にもまた靖国のみ社のことにうれひはふかし

「八月十五日」と題されているわけですから、「うれひ」というのは靖国神社に参拝がならないということに対するお悔しさであると言って間違いないと私は思います。それをもっと国民は痛切にお偲びするべきではないか。
国立追悼施設なるものを造ろうという動きは、もうなくなったかなあと思って安心していたのですけれども、公明党が、それに関する調査費を予算に計上せよというような圧力を自民党に対して加えているらしく、これがどうなるかちょっと解りません。国立追悼施設というのは、簡単に言えば、中国・韓国からの批判をかわす為に造るものです。政治的な意図に基づいて造られるだけのものであって、戦没者や遺族に対する慮りというものは全くゼロです。そういうものを造ろうとは、本当に情けない限りですけれども、最後に一つ紹介したいのは「日本の皆様、靖国神社を守って下さい」という本が出ております。これはブラジルの日系人、日系三世とか四世の中学生、高校生達が靖国神社に代わる国立追悼施設というものが造られるということを先生から聞いて、「それは止めて下さい。」ということを書いてきたんです。なんでブラジルの子供たちが、と思われるでしょうが、この子たちが書いた手紙を読んでいると、あぁ、これが世界の常識だなぁと思うのです。十六歳の少女が書いた手紙です。

戦争があるたびに、たくさんつみのない人が死んでいきます。たくさん、若い人たち、私たちと同じ年齢の人やお父さんたちが、戦争に行ってなくなります。神風になって、国のために、戦って死んでいきました。靖国神社には、そのようななくなった人たちのたましいが静かに住んでいらっしゃいます。だから、とてもたいせつなところなのです。なくなった方々の家族の方々は、靖国神社へおがみに行きます。でも、もう一つの施設をつくれば、長い間に、日本人たちは靖国神社を忘れていくでしょう。それでいいのですか。朝鮮や中国の人々が文句を言うから、場所をかえるのですか。あなたたちは日本人の誇りがないみたい。中国人もたくさん日本人を殺しました。日本人もたくさん敵を殺しました。でも、これが戦争なのです。そして、そのために、たくさんの人たちが、けがしたり、心をきずつけられたり、死んだりします。そして、その結果は、戦争が終わったあとでしかわかりません。外国人のいいなりになって場所をかえたらはずかしいと思いませんか。私はまちがっていると思います。日本人の皆さん考えなおして下さい。

この子たちの多くは、靖国神社にも来たことがあるんです。広島の江田島にも行って、教育参考館を見学していきました。特攻隊の残した遺書にとても感動して帰って行きました。その英霊たちの魂が安らぐ場所である靖国神社を守って下さいと訴えています。ブラジルの子ども達だけではなくて、今、靖国神社には若い世代を集めた「友の会」というものが出来ています。今、八百名くらいの会員がいるそうです。小林よしのりさんの影響などもあって、歴史に目覚めてきて、戦没者たちのことを知ろう、知りたいという若い世代の人達がたくさん出てきています。そういう若い世代が、戦没者、死者との絆を回復する、死者との対話を回復する、自分たちにかけられた願いというものに目覚めた時、本当に生きるということの尊さが解ると思います。命を大切にしなさい、自分を大切にしなさいといくら言っても生きることの尊さが解るものではない。亡くなった方々たちの思い、自分にかけられた願い、そういうものに目覚めてこそ解る。ですから、今の教育問題というのも、靖国神社の問題と深く根っこは同じであって、亡くなった方たちへの尊敬の念を回復することが、本当に子ども達の命の輝きを回復することではないかと私は思っております。

(平成十六年八月十五日 広島護國神社・悠久殿)