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呉市

呉 駅 ―軍政部長がお出迎え―

呉市は、陛下の御祖父明治天皇が行幸された折、呉の港を御覧になり、軍港とすることを決められた都市である。
明治の時代より敗戦に至るまで日本海軍の用地として栄えた呉も、昭和二十年七月の大空襲により焼土と化し、また、戦後まもなく昭和二十年九月には大水害という二重の打撃を受けた。それ故に、天皇陛下も格別御憂慮され、呉市への巡幸が実現したと拝察される。
さて、午後二時十二分、広島市巡幸を終えられた陛下は、呉駅へお着きになった。そこでは、アメリカ中国軍政部長シユナイター大佐が陛下をお迎えしていた。大佐は、「私がシュナイター大佐です。はじめてお目にかかって嬉しゅうございます。私は個人の資格として非公式にお迎え致します。私は個人として陛下が呉に来られたことをお喜びし、今度の旅行が愉快であられることを祈ります。」とあいさつ申し上げ、これを後藤宮内府外事課長が通訳すると、陛下は
「お目にかかって大変うれしゅうございます。御成功を祈ります。」
と御返事になった。
占領下にあってアメリカの軍人が、個人の資格とはいえ陛下をお迎えしたという事は、巡幸の持つ意味の重大さを示すものといえるだろう。

呉市役所 ― 呉市復興への御期待 ―

つづいて陛下は呉市役所を御訪問になった。市役所前玄関では、未復員兵士の家族や遺族たちが、お迎え申し上げていた。陛下は当時の末永市長から未復員家族の代表を紹介されると、家族たちのそばまでお近づきになり
「随分長く待っていることでしょう。もう直ぐですから明るい気持ちで待っていて下さい。」
と、やさしく声をかけられた。また、遺族代表の岩方母子寮上田捜さん (当時二十七才) にも
「大変気の毒ですね。どうぞ明るくね。」
とのお言葉があり、引揚者にも
「力を落とさないでね。しつかりとどうぞ明るくね。」
とお励ましになった。陛下の慈愛に満ちたお言葉に一同は思わず涙を流したのであった。
この日陛下をお迎えした遺族や引揚者たちが、陛下のこのようなあたたかいお言葉に、どんなに勇気づけられたかは想像にかたくない。戦災の苦しみも肉親を失った悲しみも、夫や息子の帰りを待つ不安な気持ちも、すべてを忘れて明日への生きる希望を持つことができたにちがいない。
遺族たちとのお話を終えられた陛下は、呉市役所にお入りになり、市長室で末永呉市長より、呉市の変遷、戦災および復興状況などをお聞きになった。そして市長に対し
「ただ今申したように早く復興することを楽しみにしています。」
と、述べられ、呉市復興への期待をよせられた。

呉市民奉迎場(二河公園) ― 中学生の「君ケ代」でお見送り ―

呉市役所を後にされた陛下は、続いて呉市民奉迎場として当てられた二河公園へと向かわれた。
公園には五時間も前から続々と市民がつめかけていた。またその中には、熊野や中黒瀬方面から相集い、トラックでやってきた者なども多数含まれていた。その数は総勢五万人にのぼった。公園に入りきれず、球場のバックネットや木々に、また公園末端の復員局経理部の屋根にまでよじ登ってお迎えした。
御到着の時刻がやってくると、市民の興奮は一段と高まり、どこからともなく「万歳」「万歳」の歓声が湧きおこった。陛下は帽子を高くかかげられその歓声にお応えになった。やがて、野田市議合議長の発声で万歳三唱が行われ、その瞬間、歓迎の市民たちの興奮は最高潮に達した。
わずか五分間のお成りであった。二河公園での奉祝行事が終ると、陛下はもう呉をお離れにならなければならない。次の巡幸先三原へ向かわれるためである。
陛下が呉駅へ御到着になると、そこでは呉市広町横路中学校の生徒の吹奏楽団がお見送りのためお待ち申し上げていた。彼らは一ケ月前、陛下の呉巡幸を開き、ぜひとも自分たちの演奏する「君が代」で陛下をお迎えしたいと願っていた。そこで一ケ月間猛練習を続けこの日に備えたのである。若者たちの陛下への限りない親しみの現れであった。
午後二時五十二分、御召列車は三原へと出発した。こうして陛下の呉市巡幸は終わった。陛下には復興のために努力している呉市民の姿を御覧になり、たのもしくお感じになったことと拝察される。
呉市民は戦災による悲しみも苦しみもすべて忘れて呉市の復興と発展のために努力することを誓い合ったのである。
最後に陛下の呉巡幸の際、市民の詠んだ歌を三首紹介してみよう。三首とも市民のよろこびと感激のほどがうかがわれる。

                         幸田幸太郎
    いささかも王者の構へあそばさぬ天皇陛下をつくづく仰ぐ
    天皇にもの申す声ふるへつつせつなきことを遺児は言ひたり

                        阿部英彦
    立札に未亡人席と記されて陛下にまみえ皆泣きてをり

天皇陛下の御巡幸を回顧して

呉史談会顧問 田妻喜代人

    ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

このお歌は昭和二十一年の新春にあたっての陛下よりの勅題、「松上の雪」であります。私には、あの終戦に際しての、玉音放送にひれ伏したときの、痛切な感慨と共に、感銘にみちた、お歌でありました。
申すまでもなく、昭和二十一年、年頭の日本は、前代未開の敗戦につぐ、冷厳な占領下になって、国民のすべてが不安と焦燥のあけ暮でありました。それだけに勅題、松上の雪のお歌は、うちひしがれた国民に、ほのばのとした、明日への希望の光と、難局に処すべき心がまえを与えました。深き大御心に感激した国民は、次々陛下へ、御奉答の詩歌を献じました。
その全国からの数多き詩歌の中で、特に心惹かれましたのは、小田原の岩越元一郎氏より献上の

    巣ごもりて雛を育てる親鶴の背にこぼるる松の白雪

の一首でありました。憶えば日本列島、四ッ島の巣ごもった、一億赤子を温かく育くみたまふ皇恩に感泣した、岩越先生の至誠恋闕の献歌であったと拝察しました。
果せるかな、その年二月、宮内庁はかしこくも、陛下御自らの、全国御巡幸のご決意を公表し、国民は大きく恐催いたしましたが、陛下には、二月十九日より、神奈川県、東京都をおはじめに、戦災で、焼土と化した全国殆どの主要都市をはじめ、戦禍で困窮の人々に対し、御自ら励まされ、お慰めのお言葉を賜りました。陛下は文字通り、無防備のお姿で草深い山村から、漁業、水産、炭鉱に至るまで、御巡幸たまわりました。その時の御製に

    戦のわぎはひうけし国民をおもふ心にいでたちて来ぬ

と詠じられました。呉市への御巡幸賜わったのは、昭和二十二年十二月七日でしたが、市民待望のこの日は、朝まだきどんよりした、冬空に時雨る、うすら寒い日でありました。
しかし菊花御紋章のお召列車が、呉駅にご到着の午後一時を廻る頃、気づかわれた天候は、すっかり快晴になったと記憶します。当時呉市会議員中、一番若年であった私も、呉駅ホームで、お召列車をお迎えする光栄に浴し、一連の人々と共に、まだバラック建だった駅の所定場所へ早々と参列しました。
やがてお召列車が、ゆるやかに駅構内へ進行して参りますと、荘重な君が代が流れて参りました。きけば広町横路新制中学校の少年学徒たちの吹奏する君が代でした。
数人の侍従を伴われて、呉駅ホームに第一歩を印せられた陛下は、ホームに参列の私たちに、次々ご会釈を賜わりましたが、私は...陛下のお姿がお近くなりましたとき、体内が熱く引きしまりました。
こうした緊張の中を、陛下は、呉駅長のご先導で、ご巡路にお出ましになりました・・・・・・ちょうどその一瞬でした。奉迎の人々の中から、突如として、
 ・・・・・・スメラミコト イヤサカ・・・・・・と
奉迎の.第一声が発せられました。ハッとして見れば、その一声は、かねて イヤサカ・・・・・・と眤懇な若き知友の笹本毅氏の、感きわまっての第一声でした。......この第一声に引きつづき萬歳々々の連続......その大合唱が一せいに駅構内へ、ひびき渉りました。
すると陛下はお帽子をお振りになり、御巡路の両側にギッシリ堵列する、奉迎の人々にご会釈を賜わりつつ、駅前より無蓋のお召車に御乗車になり、ごくゆるやかに二河公園の奉迎場へ向かわれました。その沿道は、無論、公園の広場も、歓喜熱狂の人々と、日の丸の旗の波で埋まりました。その中を奉迎の式台に、お上りになった陛下のお姿を拝した市民のほとんどが、萬歳々々の声と共に感涙にむせびました。
かくて、陛下は末永呉市長のご先導で、旧、呉市会議事堂の屋上にお立ちになって、全市の状況をつぶさに御覧になりました。その時、陛下は、呉港の海の彼方の島々について、御下問になりましたので、市長はうやうやしく、「あの島が江田島であります」と申しあげると陛下はしばらく、遥かにかすむ島々をじっとご覧になられたとのことでありました。以上呉市でのご予定を終えられた陛下は、呉市民のお見送りの中を、三原市へ御巡幸になりました。
さて、その夜のことです。一堂に合した知友二十余名は、今日の歓びを語り合いましたがその席上、歌人の門田省三博士は、感激をかみしめながら......

    大君の御幸今かとさ庭べに目つむり立てば降る時雨かな
    玉砂利のながきくばみとこれやこのおほみくるまのゆかせしところ

と謹詠せられました。......あれからすでに、四十年、波乱にみちた歳月でしたが、天皇陛下には、益々御健勝にわたらせられ、めでたく御在位六十年を、お迎えになりました。慶祝にたえません。
而も今、世界史の奇頗と謳われる、日本のめざましい復興と繁栄を日のあたりにするとき、今更のごとく、...... 日本民族の不退転の気力と共に、終戦の八月十五日、皇祖皇宗の御遺訓を一身にうけさせられ「萬世泰平」を中外に宣せられた、大詔を想起いたします。希くば人類史の明日に、御聖徳の光りかがやくことを祈って止みません。弥栄
昭和六十一年 秋 謹記