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広島市⑤

広島市役所 ―屋上から市内を御展望―

県立第一中学校を出発したお車は、沿道を十重二十重と囲んだ人垣の中を広島市役所へと向かった。途中ではボーイスカウトをはじめとして消防団員多数が交通整理に当たっていたが、陛下をお迎えする市民はお車の通過と共にその人垣を崩し、お車の後を市役所前へと殺到した。やがて市役所の自動車庫や付近の民家の屋根、垣の上まで鈴なりの人だかりとなった。「天皇陛下万歳!万歳!」の歓呼の中、御予定より5分遅れて午前11時40分、陛下は市役所正門玄関へとお着きになった。玄関前では浜井信三市長、奥田達郎助役、森沢雄三助役、寺田豊市議会議長、山木茂副議長、更に玄関前大廊下では各課長、係長がお出迎え申し上げた。浜井市長の先導で二階に進まれた陛下は、正面大廊下に整列してお出迎え申し上げる市会議員39名、そして浅野長武氏以下市政功労者25名に御会釈されつつ市長室に入られ浜井市長からの市政奏上をお受けになった。


   市長奏上

謹んで広島市長浜井信三市勢の一斑に就いて奏上申し上げます。 広島市は大田川の三角州上に発達した都市でございまして今から凡そ350余年前天正17年に毛利輝元がこの地に城を築きましたのがその始めであります。その後福島正則が一時城主となり、さらに浅野長晟が、紀州和歌山より移封されまして、爾来明治維新まで250余年の間浅野氏に於て藩を始め広島の基礎を固めたのであります。
明治時代に入りましては、広島県第一区より広島区時代を経て、明治22年4月市制施行と共に、広島市と称することになりました。同年11月には、時の広島県知事、千田貞暁が5年の星霜を費やし苦心を重ねました宇品港が、竣工して一躍本市は我国海陸交通の重要拠点となったのであります。
越えて明治28年の戦役に当たりましては、本市は陸軍の輸送基地としてその任を果たすと共に、大本営を当市に進められ7ヶ月の永きに亘って明治天皇の御滞在を恭う致しました。
今日陛下の御使用に供しました御椅子及び机掛は、当時明治大帝から本市が拝領して記念として保存いたしておるものでございます。
爾来本市は陸軍運輸部の所在地となり戦役、事業の影響に依りまして市勢は著しく躍進いたしました。
明治7年には広島県に於いて、広島港修築の工を起こし、更に市内の水害防止のため太田川の改修工事に着手し同16年には工業港修築のため市の南方地先の埋め立て工事が進められました。
欺くて昭和16年ごろには本市は戸数10万余、人口41万を越え中国地方における政治、経済、文化の中心都市として自他共に許して居りましたが、昭和20年8月6日原子爆弾により都市部4百万坪は焦土と化し、その他の家屋も尽く破壊せられ、ために死者行方不明併せて9万2千余人、重軽傷者3万7千余人を出しまして一時全く混乱状態に陥りました。
然し、残存した市民は間もなく平静を取り戻し焦土の中に新たなる都市を再建せんとする機運もざ漸く昂つて参りまして、同年12月には全市民を網羅する広島市復興会が誕生し、昭和21年2月には新に本市の機構に復興局を設置すると同時に復興審議会を創設し、諸般の復興計画を進めて参りました。
復興計画に当たりましては、まず応急復興として道路の清掃、庶民の住宅の建設、物資配給機関の整備、学校交通機関水道の復興、橋梁の架設、保健衛生並びに戦災引揚者等の援護施設の整備等に力を尽くすと共にそれと併行して恒久的復興計画を樹立してまいりました。今や応急復旧は略々完了し夫々不自由ながら機能を発揮しております。
欺くて今日本市の人口22万2千余、戸数5万5千余を越えるに至り商工業も漸次復旧の機運に向ってまいりました。 恒久的復旧計画に当たりましては平和の記念都市として国際的文化都市を建設する事を理想として諸般の計画を進めております。
その計画の概要は図面により別室に於いて後刻御覧願う事といたしましております。しかしその計画を実施いたしますには多額の経費を要し仮復興に約16億円本復興に約60億円の経費を要する見込みでございましてこれが財源を如何にして得るかが今日私どもに課せられた重大なる課題でございます。
本市復興に関しましては、又進駐軍に於いても強い関心をもたれ英米両軍より種々好意ある援助を受けております。 今や本市の復興は世界注視の的となっていると仄聞いたします。私共はその期待に副ふべく凡ゆる困難を克服しまして、理想に実現に邁進いたす決心でございます。
なお私共は全市民の盛り上がる意思により本年8月6日戦災2周年記念に当たり平和祭を挙行いたしました。その趣旨は広島の戦災によって得た諸々の教訓を全世界の人々に伝え将来欺る悲惨事を世界の何処においても再び繰り返さないやうに警告して僅かでも人類の福祉増進に貢献する事ができるならばそれこそ本市の犠牲を最も意義あらしめるものであると考えたからに他なりません。
陛下に於かれましては広島市民の平和的文化的都市建設の念願と永遠の平和を心から祈念する心情に対し深き御賢慮を賜ります様御願い申し上げます。
以上謹んで市勢の一斑に於いて申上げた次第でございます。


浜井市長の読み上げる奏上文に、時折小さくうなずきながら耳を傾けられておられた。浜井市長は奏上中特に、陛下の御使用に供した椅子及び机掛の事について説明申上げた。市長室にこの日のために備え付けられた椅子と机掛は、50数年前の日清戦争時、大本営を広島市にお進めになった明治天皇がご使用になられ、大東亜戦争の激化と共に疎開されていた為原爆の難よりのがれたものである。陛下は御祖父明治天皇を偲んでおられるのか、お懐かしげにじっと見入っておられた。
市長の奏上が終わると、陛下は市長公室にお入りになり、陳列された原爆参考品や広島市の特産物、英連邦軍から寄贈された同軍航空隊撮影の広島市航空写真等を御興味深げに御覧になった。特に原子爆弾の高熱で焼けただれた瓦や煉瓦、小石の前では、その説明書と何度も見比べになり、また「フリスライト」という中国塗料株式会社出品の昆虫をあしらった製品の前では
「どの会社の出品かね。」
とのご質問もなされた。
この度の広島市役所行幸は市長以下,議員一同の熱烈な願いの中で実現したものであった。広島県行幸が決まった折、市会議員団はぜひとも市役所に行幸していただきたいとの熱望から県知事に当てて「広島市役所に天皇陛下御巡幸を仰ぐよう県当局に対する陳情書」を提出した。
このような市長以下、議員団の熱望で実現した市役所行幸の御日程は、いよいよ市役所屋上からの広島市内の御展望へと移った。
この日、広島は乳白色の雲が空をおおい、周辺の山々も、そしていつもなら青い海に浮かぶ瀬戸内海の島々も霧に包まれて見ることは出来なかった。しかし陛下が広島市街地全域を御展望されるには十分であった。
陛下が市役所屋上に御姿を見せられると、周囲の路上から万歳!万歳!の声が湧きあがった。陛下は思わず足をお止めになり、帽子を右手に幾度も幾度も振られて市民の歓呼にお応えになった。陛下は浜井市長の説明に
「ああ、そう。うん、うん。」
とうなずかれながら、眼下に広がる原爆被災地広島、復興広島双方の情景にお目を注がれるのであった。


"天皇陛下と原爆被災地広島"この劇的な感激の瞬間を待ち望んでいたのは、市民や議員団ばかりではなかった。各社の新聞記者、写真班、放送局、市内各学校の新聞班は、陛下に一挙手一投足を一つも見逃すまいと必死に待機していた。中でも陛下のすぐお側に接して取材していた幾人かの学校新聞班の豆記者たちは、この時の感激を次のように語っている。
広島女子専門学校三年の永島千代さん(19歳)は「陛下がおやつれになっていたので『おいたわしい。』と感じたが、沿道の群集の熱狂的な感激を見て陛下がお喜びになられたろうと思い、安心しました。」
同校二年生澄谷三枝子さん(18歳)は「無造作に着ておられる御洋服や御動作を間近に見て、親しい感情を覚え、敬愛の念を深めました。」
広島県立女子高校の突永陽子さんは、「民衆の熱狂的歓呼に、陛下は帽子を何度も高く上げられお応えになりましたが、終始お親しい感じがしました。」
放送局のマイクには陛下のお声がはっきりとキャッチされている。
「割合に建物が出来たんだね。」
と浜井市長にお話になられている。陛下は原爆を受けた広島市が着実に復興に向かっている姿を御覧になり、広島市民の努力を実感されたご様子であった。 天皇陛下本市行幸に対する感謝決議文 ごてんぼうを最後に陛下は市役所玄関前にお出ましになった。そのせつな、奉迎者の列は崩れ、お車に迫り、陛下がご出発の際には、MPのジープが御通過を助けねばならないほどの混乱ぶりであった。万歳!万歳!を連呼しお車に崩れかかる市民の波に、陛下は右に左ににこやかに微笑みかけられながら御予定の午後12時2分、市役所を御出発になられた。陛下が中国巡幸を終えられた後、広島市議会では次のような「天皇陛下本市行幸に対する感謝決議文」を決議し、陛下への感謝の気持ちをあらわした。

   天皇陛下本市行幸に対する感謝決議文

今般天皇陛下中国御巡幸の為、去る12月7日、本市に陛下の行幸を仰ぐ事が出来ましたことは本市の最も光栄とするところでありまして、市民は夙に歓喜してこの日をお待ち申し上げ、至誠を込めて奉迎し、尊顔を配しては崇敬の念いよいよ高まり、感激の裏に奉送申し上げた次第であります。
我々市民は未曾有の戦禍を蒙り、その後旬日ならずして終戦の悲運に遭遇し、一時は全く虚脱状態に陥りましたが、日時の経過するに従い漸く次第に平静に復し、新日本建設の光明を認め、郷土の復興に努力して今日に至っているのであります。
私共は既に徒に過去を負うことを止めて、災いを転じて福となす決意の下に新生日本の為に民主化の徹底を図り、平和の実現に一路邁進している次第であります。
この尊い事実こそは、すなわち天皇陛下の御仁徳を基のまま顕現する事に他ならないと固く信じて疑いません。斯く観ずる時、油然として陛下を敬慕するの念湧き起こり、自ら理論を越えてこの地に陛下を御迎え申し上げたいとの純情が胸に満ち、この熱情が速やかに達成されるよう切望して止まなかったのであります。
幸いにして今回の我等の宿願が達せられる事と相成り、初冬のよき日陛下をお迎えして、本市の政治、教育、産業、厚生等の各観点からそれぞれの箇所に於いて、御疲労の御身にも拘らず新しく御視察を賜わり、剰え有難き御激励のお言葉を頂戴いたしました事は、関係者一同の深く感銘するところでありますが、就中奉迎式場に於いて特に本市民に賜わりました優渥なる御言葉は、全市民の心謄に深く刻まれ、温き御論には20万市民が悉く感泣して、感奮興起し世界平和の実現を固くお誓い申し上げた次第であります。
供養塔に眠る多数の尊い犠牲者たちも遺族と共にその栄光を分かち、静かに無言のうちに奉迎していた事と信じますが、図らずも侍従の御差遣を賜わり、陛下に深い御仁慈に感極まって新日本建設の礎石となった事を今更の如く喜んだ事と察します。
又爆弾症に悩む不幸な患者達も侍従に御手厚い御慰問にあずかり、高恩の有難きに感涙を禁じえなかった事と信じます。 極めて御繁忙な御日程の裡にも、かくも御心を砕かれまして行き届いた御視察を賜わりました事は、全市民挙って感謝感激に堪えないところであります。
謹んで厚く厚く御礼申し上げます。
全市民は行幸を仰いで全く安堵し、天皇陛下にご健康を衷心よりお祈り申し上げながら、新しい覚悟の下に必ず御心に御副い申し上げることを固くお誓い致しております。
昭和22年12月12日

広島県庁 ― 県民代表の奉迎にお応え ―

陛下は、市役所を御出発され、沿道の人々の熱狂的な奉迎の中、電車どおりを南に御幸橋、皆実町を経て広島県庁へと向かわれた。特に千田町、広島日赤病院前には原爆1号患者として有名な吉川清氏を始め、多数に患者が看護婦や医者に付き添われて奉迎申し上げた。
広島県庁奉迎場で、県庁、広島財務局、中四国土木出張所、地方経済安定局などの職員、地方事務所長、町村長、一般奉迎者約6千人がお待ち申し上げる中、予定より少し遅れ12時20分に陛下はお着きになった。
奉迎所の台上に立たれた陛下は、楠瀬県知事の「天皇陛下万歳!」の三唱にお応えになり、直ちに県会議事堂で地方選出の代議士、県議会議員にお会いになった。議長室で御昼食をお取りになった陛下は御小休の後、午後1時14分、県庁職員、一般市民の御見送りのうちに広島駅に向かってお車で御出発になった。

供養塔と日赤へ侍従をお差し向け

陛下は広島市お成りに際して、特に中島本町の原爆死没者供養塔と、千田町の日赤広島支部病院へ永積侍従をお差し向けになった。
供養塔では陛下の御名代として懇ろに焼香、祈祷して原爆犠牲者の霊を弔い、日赤病院では一室に待つ原爆患者 12人に対して、一人一人患部に手を当てて慰問激励した。
なお、陛下は2年前、永積侍従を、戦災慰問のため広島にお差し向けになった事があるが、今度も前の晩、陛下から急に思召があって急遽、代参することになったものであった。

広 島 駅 ― 国鉄労組代表を御激励 ―

広島市内巡幸の御日程を無事終えられた陛下は、出汐町、的場町、荒神橋を経て午後1時25分、広島駅にお着きになった。直ちに広島鉄道管理局のブラスバンドによる「君が代」の吹奏が始まる。お車をお降りになった陛下は、広島鉄道管理局長小畑靖氏の先導で取り囲む奉迎者にお応えになりつつ、地下道から第二プラットホームに進まれた。
ホームには、広島鉄道管理局職員代表、同労組代表、戦災職員遺家族、県市会議員職員等が御見送りにためお待ち申し上げていた。職員、労組代表には
「運輸事業は大切なものであるから、しっかりやってもらいたいものだね。」
ついで戦災職員家族70余名には
「苦しいでしょうが明るい気持ちでやって下さいね。」
とねんごろなお言葉をおかけになり、感涙にむせぶ整列者に一々会釈されつつ、菊花御門章の輝くお召し列車にお乗りになった。陛下は直ちに御自ら窓を開かれようとお手をかけられた。ガラス越しにその御様子を拝した県市会議員は押さえ切れぬ感動に泣いた。
窓は陛下のお手ではなかなか開かれず、それに気付いた側近が走り寄ってお開き申し上げた。陛下は、お顔を窓からお出しになりお見送りの人々に慈父のような御微笑を右へ左へと投げかけられた。人々の列はにわかに崩れ、天皇陛下万歳!万歳!の歓呼の嵐が巻き起こった。
定刻の1時30分、お召し列車は静かに動き出した。一人の外国人記者が「グッドバイ!」と叫べば、陛下はニッコリと微笑まれてお応えになった。
広島市民にとってはあまりにも短い夢のような半日であった。見送る人々はプラットホ-ムから列車が見えなくなっても何回も何回も万歳を繰り返し、しばらくは頬に流れる涙を拭おうともせず立ち尽くした。

外人記者が見た「天皇陛下と広島」

天皇陛下が原爆を受けた広島市に行幸される。それは世界の注目するところであった。陛下の回りではわざわざやってきた米、英、仏、豪の有名な新聞、通信、映画社の一流特派員が熱心な取材を行った。彼らが「天皇陛下と広島」をどう見たか、当時の中国新聞に載った記事から拾ってみる。

○ インターナショナル・ニュース・サービス紙エメリー記者談(市民奉迎場にて)
「日本でこんな盛観をみたことはなかった。想像以上に群集が多かったのには驚いた。」

○ パラマウンド映画カーテー技師談
「早速本社へ空輸して来週にニュースに5種類に分けて上映する。破壊された街の風景や、元産業奨励館の鉄骨と天皇が同一場面に映写されるから、これを見る者は何か感じるものがあろう。」

○ アクメ紙ファガーソン記者談
「天皇は大分疲れておられる。しかしこの市民の熱狂では疲れも忘れさぞ喜んでおられる事だろう。平和の天皇に相応しい人だと思う。」
○ ノースアメリカン紙フォース記者談
「天皇はいい人だ。市民は涙を流して奉迎に熱狂しているが、これが日本人の真の国民性なのだろう。美しい光景だと思う。」

○ ロンドン・デリー・ヘラルド紙デルトン記者談
「英皇帝を御迎えする時のロンドン市民の熱狂を思い出す。この市民の万歳の嵐は天皇の御心をゆすぶものがあろう。」

○ フランス・プレス紙プルー記者談
「こんな混雑では天皇はゆっくり原爆の地を見られることが出来ないだろう。閉戦のゆかりの地だから君主としてやはり感慨無量だろうと推察する。」

○ ニューヨーク・ヘラルド誌ゼイモンド記者談
「アトム・ヒロシマに来ていかなる強力な武器でも戦争を根絶することは出来ないと思った。世界の平和は平和愛好の国民によってのみ保たれると思った。」