殉じる覚悟と決意によってのみ歴史の生命は甦る。民族の生命は存亡の危機に面したとき、光を放つとは先に述べたとおりである。天皇陛下(注:昭和天皇)の御覚悟と御決意によって、国民の勇気と祖国と共に滅びる決意によって民族の生命は蘇生したのである。我が国は今日、世界のどこの国よりも豊かになり、平和を享受しつづけている。あの敗戦の日から今日までの四十年間、誰がこの国の今日の平和と繁栄を想像したであろうか。敗戦国として日本各地は、戦災と窮乏の中で国民は混乱と飢餓に苦しんだ。
だが敗れた国の山河と共に、親や子や友人と共に、そして又、天皇陛下と共に喜びと悲しみを分かち合いながら、祖国の再建に邁進した日本であった。その祖国再建の第一歩とは二十年八月十五日の詔りであった。それは「死ね」と仰せられた方がよほどたやすいにもかかわらず、「絶対に生きよ」と仰せられたのであった。だがこうして敗戦は終ったが、敗戦の混乱は深刻化し、内地や外地でまだ安否のわからない人、肉親を失った人、国民にとって悲しいつらい日々であった。そういう日に天皇陛下は、
この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い大変な災厄を受けた。
この際私は、私としてはどうすればいいのかを考え、退位も考えた。しかしよく考えた
末、この際は全国を隈なく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせ
るための勇気を与えることが自分の責任と思う。
と仰せられ、全国巡幸の旅に立たれたのである。
戦災地視察三首
戦のわざわひうけし国民を思ふ心にいでたちてきぬ
わざわひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしぞと思う
国をこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし
陛下は昭和二十一年二月十九日、地方巡幸に出られた。横浜から始まった巡幸は、北海道行幸まで三万三千キロ、延日数百六十五日間の長旅であった。陛下は終戦の御聖断の際の御言葉に
今日まで戦場に在って陣歿し、あるいは殉職して非命にたおれた者、またその遺族を思う
ときは悲喚に耐えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生
活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもい
とわない...
と仰せられた。この「なすべきことがあれば何でもいとわない」の御言葉通り、御実行になったのであった。敗戦下の茫然自失の国民を何とか助けよう、悲しみを少しでも和らげようと御軫念なさる陛下にとっては、身を切られるよな日々にじっとしておられない御気持ちから、巡幸となったのであろうか。その行幸の先々で陛下を待っていたのは、親を亡くした子供、夫や子供が戦死した妻や親であった。又、家を焼かれ戦火に負傷した人びとであった。そういう巡幸の先々で陛下はお声をかけられ励まされたのであった。
御歌で「国民をおもふ心にいでたちてきぬ」と詠まれたが、その陛下に御心に国民は深い思いを感じ、巡幸の先々で感動の渦ができたのであった。国民は陛下を感動と涙でお迎えし、「敗戦の苦しみはつらいが、日本には陛下がおいでになる。」との認識を新たにし、新生日本の再建の決意を確かにするのであった。この巡幸が、民族存亡の危機を救い民族の生命の復活と蘇生をなし得た。御心によって励まされ、生きていく魂のよりどころを示していただいたのであった。そしてそのことが、今日の奇跡的な復興と繁栄の原動力となっているのである。
広 島(昭和二十二年)
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり
陛下が広島を巡幸されたのは昭和二十二年の十二月五日から八日までであった。この御歌は、陛下が爆心直下の相生橋を御通過の折、橋の南の平和の塔から陛下のお通りを報ずる平和の鐘が鳴らされたが、その折に陛下が復興する広島についての御感慨を詠まれたものであろう。この「ああ広島」の一語に注目しなければならない。何ともいえない陛下の万感の思いが込められているようである。陛下は終戦の詔りで
新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所...
と仰せられたが、この広島の原爆で倒れた人びと、幸いにも生きのびたが負傷したり、家を焼かれた人びとに対して陛下は特別の感慨を抱かれたのである。中でも原爆孤児には特にいとおしく見舞われた。「広島戦災児育成所」を御訪問になった時である。原爆で親を失い、負傷の傷跡の残るけなげな幼児たち、少年たちの姿に陛下は泣かれた。そこにいた人びとも皆泣いたのであった。「ああ広島」にはこのような陛下の万感の思いが込められていたのであった。
昭和五十年十月、陛下は御在位五十年をおむかえになられるにつけて日本記者クラブの合同記者会見をされたがその時、
記者 - これまでに三回広島へ行かれ、広島市民にお見舞のことばを述べておられま
すが、戦争終結にあたり原爆投下されたことをどう受け止められましたか。
陛下 - この原子爆弾が投下されたことの対して遺憾に思っていますが、こういう戦
争中であることですから広島市民に対して気の毒であるが、やむをえないことと
思います。
という記者の質問と陛下のお答えがあった。この陛下の御言葉に対して「日本原水協」は「御発言はあれほど悲惨であった原爆被爆者にとっては、大きなショックであり、容認できない。」という談話を発表した。「広島原水禁」「広島県被団協」も同様の談話を発表したのである。何という軽率な見識であろうか。そもそも戦争とは原爆であろうが、通常爆弾であろうが悲惨であり、むごたらしいものなのだ。今大戦のすべてにおいても「遺憾ではあるが、やむをえなかった。」のであった。
彼等は「終戦の詔書」を知らないのか。そうであったから陛下は
戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及ヒ其ノ遺族ニ想ヲ致セバ五内為ニ裂ク且
戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
と仰せられたのではなかったか。「五内為ニ裂ク」とは先に述べたように「地獄の業火の中に立ってなお死ぬことのできぬほどの苦しみ」という意味であるが、これほど戦死した者、その遺族のこと、被災者のことに心を痛められたのであった。それとも彼等、すなわち原水協、原水禁、被団協は、その後陛下の御気持ちが変わったとでも思っているのであろうか。
陛下は毎年八月十五日に行われる終戦記念日の戦没者追悼式において、御言葉に「今なお胸の痛むのを覚えます。」と仰せられる。これは、単なるお言葉ではない。毎年毎年くり返し「胸が痛む」とおっしゃっているのだ。また、戦後の大御歌の中にも
夢さめて旅寝の床に十とせてふ昔思へば胸せまりくる
国のため命ささげし人々のことを思へば胸せまりくる
年あまたへにけるけふものこされしうからおもへばむねせまりくる
国守ると身をきずつけし人びとのうへをしおもふ朝な夕に
樺太に命をすてしたをやめのこころを思へばむねせまりくる
等々あるがあげれば切はない。今日天皇陛下は詔りを出される習わしが廃止されたが「五内為ニ裂ク」と詔りされたと同じ内容を今もなお、くり返し御言葉の中で、あるいは御歌の中で仰せつづけられているのである。これほどまでに毎年毎年仰せ下さっている陛下の戦後とは、戦いの庭に倒れた人びとを思い、御心を痛めつづけられた日々であった。これほどの陛下の切ない御気持ちがわからないという「原水協談話」の軽率な見識だけを責めるだけではならない。すべての日本人が、もう一度己れ自らを責めてみて、この陛下の御心の重みを知らなければならないと思うのである。
陛下の巡幸とは、鎮魂の旅であった。二百万人の人びとが戦争で死んだ。九百万人の被災者を出した。何ゆえに歴史は、かくも多くの者を殺すのか。この戦争による死者の魂をどう鎮めればよいのか。陛下は山を超え、野を越えて都市から農村、漁村へと行幸された。そして、戦災者の戸口に行かれ、頭を下げられ励ましの御言葉をかけられた。陛下は泣いておられた。その涙と微笑の中に鎮魂と日本の再建の御祈念があったのである。
長崎で原爆に被爆し倒れた『この子を残して』の著者でもある永井隆博士は、
天皇陛下は巡礼ですね。形は洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、
陛下のお心は、わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました。
と語っている。陛下の戦後地方巡幸は巡礼の旅でもあった。
かくして再起した我民族は、今日の繁栄と平和を築くことができたのであった。このことは確実に終戦から今日まで、ひたすら国民のことを思い、国がらを護持せんとの御祈念をいだかれた天皇陛下の御陰なのである。天皇陛下御在位六十年とは、そのことを御祝い申し上げるだけではならない。御苦労は至難であった六十年間、御心を安んじていただく間もなかった陛下に対して、御詫びと御報謝の誠をつくさせていただくものでなければならないのだ。
旅
遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく
昭和六十年の歌会始の御題「旅」の大御歌として詠まれた御歌である。
陛下にとって「大和路」とは、ただ地図の上の大和の中にのみあるのではない。また単なる歴史の中にあるのではない。それは、神々の物語の時代から、妣が国から、常世から、さらには天照大御神が瓊々杵の尊に下し賜わった「三つの神勅」から、聖徳太子や山背大兄王の時代からもつづいているのだ。その『遠つおや』様が『しろしめしたる』日本の国がらをひたすらにお護りになりながら陛下は心の巡礼をなさっているのだろうか。
陛下は今日もなお『歴史をしのび』ながら巡幸をお続けになっているのだ。
『けふも旅ゆく』と。
この天皇陛下と共に存ずる国民ある限り、我日本の美しさは至言であり、永遠なのである。御在位六十年、思いの限りを込めて「天皇陛下万才」を三唱し奉る。