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憲法改正問題

★谷川和穂氏(前衆議院議員・自由民主党憲法調査会顧問・前 憲法改正プロジェクトチーム座長)
記念講演「今、なぜ憲法改正か」
平成16年2月11日建国記念の日奉祝式典(呉市)より  (16.4.29)

明治維新の元勲たちが支えた明治憲法体制

建国記念日、誠におめでとうございます。皆様方とご一緒に、池田行彦先生のご冥福を心からお祈り申し上げたいと思います。選挙が終わってからわずか3ヶ月でございました。大変無念、残念にお思いなのでないかと思います。心からご冥福をお祈り申し上げます。

本日ここへ昭和5年7月22日の朝日新聞の縮刷版を持ってまいりました。昭和5年の7月22日の朝日新聞の縮刷版でございます。この縮刷版に、東郷平八郎元帥のお姿が出ております。そしてその2頁後に当時の海軍大臣・財部彪大将の写真があります。一番外れに幣原喜重郎外務大臣、その後ろに浜口雄幸総理大臣が写っておるものです。
その時の政治課題が、明治憲法十一条、統帥権干犯問題。実はこれは憲法問題ではなかった、政治闘争で使われたものであります。明治憲法は簡潔な憲法でございまして、世界の成文憲法の中でも短い、簡潔な成文憲法、文字に書かれた憲法でございます。政治は生き物だと言われますが、明治憲法の十一条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス。」これだけです。
その脇に一行、但し書きで、「ただし、陸軍・海軍の必要な経費は国会の承認を経たものとする」。これだけ加わっただけでも日本の歴史が変わっておったと思います。
短い憲法でありながら、なぜうまく運用されたかと申しますと、明治維新の9人の元老。これは日本独特の制度なんです。憲法運用の妙は、9人の元老がおられたおかげによる。残念ながら昭和5年は明治ご維新から60年ですから、三十歳の時、維新で活躍された方が元老になったとして年齢的には既に九十歳。昭和5年までにはほとんどの元老は亡くなっておられました。
昭和5年ロンドン条約批准の折、憲法論争が政治闘争の一部として使われることになってしまいました。今、日本国内では、憲法改正というのは、昔来た道へ戻るのではないかという護憲運動というものがございますが、成文憲法は常に、時代が変わったら憲法そのものの条文を書き加えるとか変えることをしないと、政治目標を達成しようとするグループが、最後には暴力に訴えることになりかねない。
浜口雄幸首相は翌年の8月に亡くなっているのですが、右翼の青年に狙撃されて、それがもとで。浜口内閣が倒れてからは後は皆様ご存知の通り、昭和7年、8年と、政治的指導者の暗殺。憲法を動かさないことが、政治主張を押し通そうと暴力に訴えるというもとになったわけです。たまたま時期が世界的に凄まじい大不況となったことも日本にとっては不幸でした。

日本の世界的評価を高めた柴五朗中佐率いる日本軍北京守備隊

今年の1月16日、自衛隊イラク復興事業支援のために先遣隊が出発した日ですが、私はその出発の時に、百十年前に北京で起こった、弁髪(長い髪の毛)で、外国人を皆殺しにしてしまうとか、キリスト教徒をその子供まで殺してしまうとか、これを拳匪の乱とか北清事変とかいわれた義和団事件のことを思い出しておりました。
その時に柴五朗中佐という方がほんの少ししかいなかった日本軍北京守備隊を指揮して最も守り難いといわれた粛親王府を守っていた。
日本の守備隊の活躍が世界の人々から賞賛されたんです。北京に滞在しておりましたG・E・モリソンというロンドンタイムズ紙の特派員が、柴五朗中佐を中心とした日本人の活躍を、「献身・謙譲・忍耐・勇気等、日本人の持つ倫理規範によって多くの英国人の命を救った」と本国へ打電しました。この報道記事が、その後に日本とイギリスの間で締結される日英同盟を作り上げるもととなったのでございます。マクドナルドという公使はその後日本の公使となった人ですが、休みの時にロンドンに帰りまして、ソールズベリー首相に、日本人の素晴らしい活躍振りを伝え、それまでイギリスは、七つの海に君臨しておって、どこの国とも同盟を結ばない誇り高き国でしたが、極東の小国、日本と同盟を結ぶことを熱心に説いた。ロシアの極東進出が激しくなってきていたからです。

世界から注目された「武士道」精神と「ラスト・サムライ」

日英同盟が結ばれたのは日露戦争が始まるわずか2年前のことです。日露戦争であれだけ大きな国を相手に戦うことが出来たのは、この日英同盟が会ったからだと云われます。当時日本には、鐵甲艦が足りなかった。ヨーロッパで建造中のアルゼンチンの軍艦をイギリスが仲介して日本に譲るように奔走してくれた。この艦が日本海海戦にようやく間に合った「日進」と「春日」です。受け取りに行ったのが、終戦時の内閣総理大臣になった鈴木貫太郎、確か当時海軍少尉。アルゼンチンの海事博物館には丁度百年前の5月27日の日本海海戦の記念の軍艦旗と「日進」、「春日」の記念の品が、同乗したアルゼンチンの観戦武官の手記と共に晴れ晴れしく展示されております。
新渡戸稲造という方が、英文で「武士道」という本を書かれました。初版が1899年で、北清事変がほぼ片付いたのが1900年、日露戦争が1904年~1905年、再販が1906年。再販の冒頭に新渡戸稲造先生は、維新からわずか三十年で、日本がここまで国を進めることが出来たのは、「あたかもそれは、イギリス憲法と同じが如く」長い歴史・伝統の中で培ってきたものによる。それが日本民族の精神を形作ってきたのであると書いておられます。「武士道」というものが、最近あちこちで話題にされまして、ご覧になった方もおられるかと思いますが、アメリカ映画で「ラスト・サムライ」、渡辺謙さん他日本人の俳優の方々が大活躍なさってアメリカでも素晴らしい評価を得ている。中井貴一の「ヘブン・アンド・アース」、これは日本と中国との映画。「ラスト・サムライ」は日本人に見せる為の映画ではなかったんじゃないか。アメリカ人に見せるために作ったのではないだろうかと思います。
アメリカのマイノリティ、少数民族の問題を最初に本に著した方は東京女子大の猿谷要先生。猿谷先生は、ローマ帝国が繁栄の絶頂期に、ローマ人の誰もがこの帝国が滅びるなんてことは考えたことはなかったんじゃないか、今のアメリカ人の世界最大の国家、アメリカはいつまでも続き続けるだろうと考えている。
ラティーノは主としてラテンアメリカから移民してきた人達だが、ラティーノと黒人の両方足すとアメリカ全人口の四分の一を越す。去年初めて、ラテン系の人が黒人を追い越した。この傾向はもう止まらない。二十一世紀中頃になると白人がマイノリティの国になる、多民族、多宗教の世界に向けて進む事になる。その大実験がこれからアメリカで起こる。それに成功するかしないか、大きな問題なのだといっておられます。私はハーバード大学という大学に行きましたが、アメリカの大学の中には先ず大学院では白人でない人の数をこれだけのパーセンテージで採ろうと決めた学校もでてきております。
アメリカは移民で出来た国ですが、同じキリスト教徒でもいまカトリックの方が数が多いのですが、もともとはプロテスタントが作った国です。プロテスタントは質素だとか、正直だとか、或は謙虚さだとかを非常に大事にしますが、その意味ではヨーロッパの騎士道よりも日本の武士道の方がプロテスタントの教えに近いと考えている人もいます。自国の将来を考えながら、日本の武士道というのはどこに依拠したのだろうと、再び新渡戸稲造先生の本を競って読み始めています。かっては世界から愛される、尊敬される国だったのに、今は嫌われる国になりつつある。絶頂期を過ぎたとしたら・・・とアメリカ人が考え始めたのかも知れません。
東京八重洲の向いに八重洲ブックセンターというのがございますね。あのブックセンターの四階に行くと、そこに武士道のコーナーが出来ました。「ラスト・サムライ」を見た人たちの中に、もう一遍日本の武士道というものを勉強してみたいという人が出始めて、コーナーが出来ています。

解釈改憲では政治が国民から信用を失う

時の内閣が憲法解釈を変える。これを解釈改憲と申します。解釈を変える事によって憲法の理解をすることよりも、もしそうしなければならないような事が起こってきたならば、時代が先へ進んでしまったために、書かれた憲法との間に乖離が生じてきた場合には、解釈改憲ではなく、憲法の条文そのものを変えるようにする。そうしないと、国民から政治が信用されなくなる。
国際連合の前に国際連盟というのがございました。1993年(昭和8年)松岡洋右主席全権は国際連盟総会の総会場で英語で演説をしました。その最後に日本語で「さようなら」といって退場した。これが日本の国際連盟脱退です。日本が脱退しましてから、その年の10月にナチス・ヒットラーが脱退。それから4年後、エチオピア侵攻でイタリアが脱退、これで実質国際連盟は最後を迎えます。つまり制裁規定がなかったのです。まだ日本は戦争を続けている最中でしたが、1945年の6月に出来た国際連合というのは国際連盟の失敗を頭において作られた国際組織ですから、連合憲章第七章が一番大事な章です。
その第七章が「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」。そのところに抑止政策、制裁措置が出てくるのですが、最初の十年間は、さっぱり。ローデシア危機だとか、ポルトガル自治領問題だとか、アンゴラ・ザンビア問題とか、こういう問題は制裁が決まったんですけれどもすべて微妙な問題として実施は留保されました。
国連憲章第七章が動き出したのは、実はイデオロギー対立が終わって最初の出来事がイラクのクウェート侵攻に対する制裁です。「撃ちかた止め」は1991年2月8日、13年前の一昨日です。その12年間サダム・フセインは経済封鎖の中でありながら息を吹き返した。誰がそうさせてしまったのか。

テロを取り締まる法律のない日本

フランスは、国際連合で拒否権を持った五つの国の一つで、イラクがクウェートを侵攻したときにこれを抑える為の安保理決議の提案国の一つです。イラク制裁に賛成していた国がいよいよ最後のところになって、一寸おかしな事になった。「撃ちかた止め」となったのが1991年、いまから13年まえの2月8日。若し又、違反するようなら直ちに撃つというのが、決議案でした。アメリカは"use of forces"(武力を使って)という提案をしようとしたのに対して、フランスが、「どうせ、いよいよとなったら武力を使うんだから、わざわざそこまで書かなくったっていいじゃないの」とこういうことになって、それでserious consequence(重大な結果)を招くという文章になった。サダム・フセインに間違ったシグナルを送ってしまった、といわれる所以です。これが国連の安保理の拒否権をもつ国の間で起こったことです。国連が一つにまとまらないかもしれないとなってくるとテロに対して国連は本当に役立つのだろうか、という問題になってきます。日本の憲法に関連して日本にとっても大きな問題です。
9.11の後、国連決議で各国は情報を出し合って、協力して対処すると。もちろん「日本もこの決議に参加しております。ところが、日本はテロを規定する法律がございません。アルカイダをテロ組織として認定することは、破壊活動防止法では不可能なのです。テロに対する情報は、日本としても協力して対処するのですけれども、ところが日本から出していく情報がない。日本国内で何か悪いことをしたということがない限り情報として出していく法制になっていない。「貰うばかりで、経済大国だとか何とか言いながら、いよいよの時に一つも一緒になって協力出来ないじゃないか」と、日本の評価は下がるばかりです。

「二十一世紀に日本は無くなる」と見る米中

思い出して戴きたいのですが、いまから七、八年前に中国の李鵬元首相がオーストラリア訪問の時に「日本という国は21世紀を迎えてしばらく経ったらこの地上から無くなっているのではないか」、と発言して大きな話題になったのです、これは李鵬さんが思いつきで言ったのではない。そのまた20年前、今から数えて32年前にアメリカの大統領が中国へ行った。リチャード・ニクソンです。その時付いていったのがヘンリー・キッシンジャー。キッシンジャーという人はキッシンジャー外交というバランス・オブ・パワーの外交を推し進めた人です。対ソ外交の一環として米中和解を進めました。北京では毛沢東、周恩来、ニクソン、キッシンジャー会談がありました。
どこの新聞でもソヴィエト・ロシアは将来どうなるのだろうかということが話し合われたと報道されました。外交の話し合いというものは年が経つと何時の間にか隠されたものがでてくるのですが、この時も21世紀に入ると我々が(中国とアメリカですね)心配するような日本の時代は終わっているのではないかという話しも話し合われたという話しが最近になって出てきた。これが下敷きにあったから李鵬さんは、日本が経済大国になっても21世紀中ごろには日本が地上からいなくなっているのではないかと言ったのではないか。

イラク復興支援の民間活動

私は今ここへ、2月4日の、本日は2月11日ですから一週間前ですが、2月4日の日本経済新聞の切り抜きを持ってまいりました。ここに大きな字で「イラクの子等に毛布を」と。入院している子供でさえ電気も来ず、毛布もなく、寒さで病状を悪化させている。民間のシンクタンクの中に東京財団というのが、東京の港区にあります。ここは私も良く知っています。電力不足などの為、病院での暖房が満足にきかず、毛布も足りない状態、その為厳しい寒さで多くの子供たちが病状を悪化させて死亡しているという。日経新聞には、毛布を送る人は運賃と倉庫管理料として、毛布一枚当たり五百円を負担することとし、輸送業者も趣旨に賛同して、輸送量などを割安に抑えて、参加者は輸送業者に連絡をし、渡せば良い。その連絡先の電話番号も報道されています。
相馬雪香先生という方がおられますが、その方が「難民を助ける会」の会長をやっておられて、相馬先生からもこのお話しを伺って一生懸命になって、「毛布は余っていませんか、毛布は余っていませんか」と余っている毛布を洗濯してきれいにして私も東京財団を通じてイラクの子供たちに送る運動をやっております。皆様方にもし毛布その他があったら、是非参加して頂きたいと思います。ただ、この席で私が申し上げたいのはその次なのです。「等級雄財団の吹浦忠正常務理事は自衛隊派遣に賛成・反対といった政治的立場に関係なく、多くの人々に参加してもらいたいと話している」と。

イラク復興事業支援の自衛隊イラク派遣

自衛隊は何のために派遣されるのか、まさか戦争をしにいくのではないでしょう。日本だってイラクの人々を助ける事ができる。その為には水も宿舎も自己完結で整備できる自衛隊が一番いいというので、この時期、復興事業支援業務のためにいくのではないでしょうか。もし日本人がいまイラクの子供たちに毛布を送るなら、一枚一枚に日の丸を付けたっていい。毛布をもらったイラクの人たちが、子供たちにそっとかけてやりながら、「おい、これはな、日本の自衛隊の人が来てくれているだろう。日本人が皆で我々を助けてくれているんだからな」と言ってくれるかもしれない。
そうしたら自衛隊はどんなにか仕事をし易くなるでしょう。自衛隊は自らの派遣に賛成だとか反対だとか、そういう形で出ているのでしょうか?決してそうではない。ということは日本国内で賛成だ、反対だというもともとの始まりは憲法の解釈から起こってきている。国会のやり取りを見ているとこんな議論を、何十日、何百時間続けてみたところで、日本の将来にプラスになるとは思えない。ろくな者じゃないと外国人が言った時に、もう既に日本は地上から無くなっているんじゃあないでしょうか。
イラクでの自衛隊の活動というものは、ものすごくイラクの国民に受けるだろうと思います。キリスト教とイスラム教との間にも立って国際的にも大きな流れを作り出していくだろうとすら思います。

「羹に懲りて膾を吹く」は国を憂うる言葉

かって浅間山荘事件というのが起こった時に、一人の女性を救う為に警官が二名も死んでいる。ところが解放してみたら、なんと十九名の仲間を殺して山の中に埋めていた。それで日本の左翼運動、過激派の暴力破壊活動はあすこを契機にして支持を失っていった。いまやイラクではモスレムがモスレムを殺す。向こうの新聞では、イスラム教は爆弾を抱えて自爆すること、これは教義に反する。自爆テロは許されないという記事が出始めました。今日、六時のニュースでは、爆破されて沢山のイラク人が死にましたよね。その現場にいた人が死んだのは何の罪咎も無いイラク人ではないか。何でイラク人がイラク人を殺さねばならないのだ。テレビカメラに向かって叫んでおりましたよね。あまりにも気違いじみた自爆テロに対してこれは何としてでも止めようという国際世論になってきている。自衛隊の諸君は自分の身体をしっかり守らなければいけませんよ。自分でしっかり。イラク復興支援の活動をした時に、様々な問題が出てくるとは思うのですが、これは間違いありませんが、皆様にお尋ねしたいのですが、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という言葉がありますね。熱いものを食べて口の中が熱かったというので、今度は冷たいものを食べる時にフウフウ吹く。この言葉はいったいどこからきたのか。
楚の国に昔、屈原という熱血の指導者が居った。ところが、中傷を受けて追放されてしまい洞庭湖の南で遂に自らの命を絶った。その時に、祖国、楚の将来を慮って素晴らしい詩を残した。「楚辞」という長い詩です。その中に中国の古語で「羹に懲りて膾を吹く」という意味の言葉がでてくる、それを日本語に訳して「羹に懲りて膾を吹く」。もともとは祖国の将来を慮っての憂国の詩句でした。

国の交戦権(自衛権)を認めない憲法を抱えて六十年

日本国憲法九条第二項「前項の目的を達する為」、「国の交戦権は、これを認めない」とあります。「前項の目的を達する為」は「国の交戦権は、これを認めない」にかかるのか、かからないのか。かかるとすれば、第一項は日本は侵略戦争をしないということですから、侵略戦争をしない為に国の交戦権は認めない。おかしな解釈ですね。すべての独立国は自衛の権利を持つということとの関連はどうなるのでしょう?
それでは、かからないという事になったらどうか。国会図書館に英文での日本国憲法がありますが、ここのところは、"The right of belligerency of the state"と書かれています。"belligerency"というのは辞書を引くと「交戦権」ですから、訳として「国の交戦権は、これを認めない」と読めるのですが、そこに"the"が付いておりまして、"state"とありますが、憲法前文の方の「国」には"nations"という言葉を使っております。"the state"という言葉は大文字では書いてありませんけれども、この国の交戦権はこれはないと読めますね。国際政治学者の間で問題を起こして居る言葉の使い方だと思います。この国の憲法の生まれた昭和二十一年頃、第二次世界大戦中ヨーロッパ都市におけるレジスタンスは「交戦団体だったか」という議論にも発展した用法です。ベトコンは「交戦団体か」という議論にもなりましたが、「国の交戦権云々」という表現は世界のどこの国の憲法にもございません。アメリカ人が「いったい何時まで日本の国は、六十年前に作られた憲法をそのまま後生大事に持ち続けているんだい」と聞く位
です。

三権不分立の現行憲法の欠陥

さてその次にもうひとつ申し上げます。日本国憲法第七十六条「特別裁判所はこれを設置することは出来ない」というのがあります。これは「司法」というところに出てくるのですが、昔は裁判所と言うのは(昔というのは明治憲法です)行政権の中にあった。それを戦後、立法と、立法というのは国会ですね、司法、これは裁判所です、行政、政府ですね。三権に分けた。ところが、七十六条に昔の事が残ってしまっているのです。「特別裁判所は、これを設置することが出来ない。」作ってはいけません。作ることは出来ません。それは昔の裁判所が行政の中に入っていたという、これは羹(あつもの)ですね。それに懲りて膾(なます)を吹いた類(たぐい)です。
国民の方から見れば、税金を納める側ですから、「何でこんなに税金を取られなきゃあいけないんだ。前の税法とここのところがおかしいんじゃないか」って云って、租税裁判という、これは世界どこの国でも税というのは必ず法律でその取られ方が決まっているのですが、だから納税は権利の一部とすら言われるわけです。それは日本でもそうなんですが、裁判官が判決を書く時に、自分の脇に税に詳しい人を置く。どこからその税に詳しい人を連れてくるか。国税庁の担当官です。
租税裁判というのは裁判を訴える側の国民の権利で、「税金を納めるのに、この条文がどうもおかしい。じゃあ、裁判所に判断してもらおう」というので訴えます。被告に立つのは国です。訴えた方の勝訴率は六%位です。そりゃあそうです。税法を作った人に聞いて判決を書くのですから。租税裁判で民間の人が勝つことはまず無い。ですから能力のある、力のある弁護士さんはほとんど租税裁判は受けません。こんなことが続いているのも、これ、七十六条です。羹に懲りて膾を吹いているんです。

「義務教育」では読めない日本国憲法

もう一つ例を申し上げますが、七十三条第四項に、内閣は「官吏に関する事務を掌理する」というのがあります。「ああ、それじゃあ、あの字を書くんだな」とすぐにお判りになる方は何人もおられないと思います。そう。「掌(たなごころ)」の「掌」、「理」は「理科」の「理」。「掌理」する。岩波国語辞典で引くと、「事務を担当してとりまとめること」とあります。しかし、義務教育を終えた年齢で、「掌理する」という言葉を理解出来るでしょうか。この条文はどうしてここに置かれているのか。
日本には珍しい法律があります。国家行政組織法という法律です。その十三条に、行政の長は「特別の命令を自ら発することができる」。これは国家行政組織法十三条です。道路公団・藤井治芳総裁事件、皆さん覚えておられますね。日本独特の「行政指導」、これがまだ残ったままなのです。
つまり、終戦直後に日本の国の憲法を作り直そうということになったのですが、やっさもっさしているうちに時間がなくて、今まであった条文と、新しく出来た条文をどういうふうに上手く繋ぎ合わせていくかという処理が済まないまま出来上がってしまったというところがいっぱい出てきています。

憲法改正は植木の剪定作業と一緒

憲法を改正するという言葉を使う時に、何か怖い話しみたいに見えるけれど、そうではなくて、綺麗に手入れ・・・・、木でも鋏を入れて一寸こうやればそうなりますよね。枝ぶりの悪いところを直してこうやったらということも、改正の範疇(はんちゅう)に入るわけです。
日本の若者が、まともな価値観や人生観、モラルを持てなくなってきてしまった。教育は荒廃する。家族、家庭は音をたてて崩壊している。犯罪は激増。治安はどんどん悪くなる一方。これに対して打つ手がない。国の力を計ることが出来るのは、その国の文化力だといわれています。
日本の文化力の快復を大きく妨げているのが、国のあり方を示す「憲法」そのものではないでしょうか。日本は正に危機的状況にある。司馬遼太郎の歴史小説の中で、「世に棲む日々」という四冊ものの、明治にかけていろいろ活躍した方々についての小説がありますが、その第一巻で、司馬遼太郎は吉田松陰の叔父さんで藩から命じられて吉田松陰を徹底的に鍛えた玉木文之進の口を使って「侍とは作るものだ。生まれてくるものではない」と言わしめております。新渡戸稲造他の方々が一斉に議論を開始した武士道は不思議なことにほとんど皆日露戦争直前の明治三十年代初期、明治の危機の時代。
その三十年前までは武士は士農工商の一番偉いところでちょんまげをのっけて刀を差していた。「ちょんまげをとれ、佩刀はやめだ」。そうかといって町人にはなりきれない。百姓はへたくそで出来ない。武士だけがみんなオロオロしていた。武士の失業者がいっぱい出た時代だったと思います。その時、武士に向ってもっと誇りを持とうじゃないかという動きがでてきた。

自国の歴史に誇りを持ち、眼を向けなければ国は滅びる

戦後六十年。どんな組織でも六十年たてば変わってきます。どうすればいいんだ。武士の誇りとは、自分の事は自分でする、他人には迷惑を掛けない。もっと日本の若者たちに、自分の国の歴史に対して誇りを持たすこと。自分の歴史に対して眼を向けさせる事をしなければ、いずれこの国は滅びる。女性の集まりの席で皆さんから「へえー」、と言われたから、紫式部の事を一寸ご紹介します。源氏物語54帖が最初に世にでたのが、今から一〇〇四年前、輪転機等なかった。読みたい人は、一帖一帖筆で写して読み回していた。当時としてみれば世界のどこにもない女性文字である平仮名で書かれた。構成・心理描写・自然描写、物語文学としても最高峰を占め、世界最古の長編小説であるとして、パリのユネスコ本部で一九六四年に世界の偉人の中に紫式部が加えられました。
先程私は義和団事件の折の柴五朗中佐の話を致しました。その方は福島県の出身で、福島県始めての陸軍大将です。その柴中佐の活躍に今回の自衛隊のサマワにおけるイラク復興支援事業を重ねてみる。北清事変がほぼ治まった時に八つの国が北京を夫々の地域を担当、ただの一件の略奪行為、陵辱行為等も報告されなかった地区は日本の担当地域だけでした。北京の人達は競って日本軍管轄区へ移り住もうとしたのです。
日本国民全体が自国の歴史に対して改めて誇りを持つ、そういう国民運動が生れて来たときに新しい憲法が自分たちの手で作られるのだと思います。私は自由民主党憲法調査会の今でも顧問ですけれども、命ぜられて自民党の素案の一部を作る仕事に携わって参りましたが、これを出す時には必ず民主党にも作ってもらって、重なるものがあればそれを土台に、重ならないところがあったら、徹底的に議論して第一党と第二党が一緒になって、抜本的なものを作るべきだと考えて行動いたしました。私は国会の中でたった一つ、衆議院議員と参議院議員が一緒になって作っている委員会の委員長を六年間勤めて参りました。建国記念日の今日、奉祝式典に次の世代の人々が誇りを持てるように、こんな拙い話しですけれども一生懸命私の思うところを伝えさせて頂きました。ありがとうございました。

(建国を祝う呉市民の会による平成16年2月11日奉祝式典における記念講演の内容をご紹介させて頂きました。小見出しは当会で適宜付したものです。)